2024/04/15

礼拝メッセージ「羊を飼わせる神」ヨハネの福音書21章15-19節 大頭眞一牧師 2024/04/14


20章でいったん終わったかのように思えるヨハネの福音書。けれども今日の箇所を読むとき、21章が付け加えられていて本当によかったと思います。福音の真髄がここにあるからです。

【三度繰り返して】

主イエスはペテロに「あなたはわたしを愛していますか。」(15,16,17)と三度繰り返して訊ねます。三度!ペテロは十字架前夜、自分が三度、「主イエスを知らない、主イエスとは関係ない」と言ったことを思い出します。ですからペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めて」(17b)と、悲しくなったのでした。

けれども主イエスは、もちろんペテロを責めるために三度繰り返したのではありません。ペテロは主イエスに問われるごとに、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(15,16,17)と答えることができました。主イエスがペテロから愛の言葉を引き出してくださったのです。これはペテロから言い出すことはできない言葉。イエスが、愛を否定したペテロに、その否定の言葉を言い直させてくださった。上書きするように。そして言い直すたびにペテロの痛みは癒されていきました。主イエスは私たちからも愛の告白を引き出してくださいます。そうするごとに私たちを癒し、私たちの愛を増し加えてくださるのです。宣伝のようですが今月「何度でも何度でも何度でも愛」(民数記)の第二刷が出ました。三度で終わりでなく何度でも主イエスは私たちに愛を注ぎ、私たちの愛を増し加えてくださっています。

【あなたがご存じです】

ここでペテロの三度の答は「はい、私はあなたを愛しています」ではなく、「はい、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」でした。かつては「あなたのためなら命を捨てます」と言い切ったペテロ。けれども裏切ったペテロは、もはや自分には「はい、愛しています」などと言い切る自信がありません。ペテロのうちには愛はないのです。

けれども主イエスはそんなペテロに現れ、パンと魚を裂き与え、愛といのちを注いでくださいました。だからペテロは答えることができました。「はい、主よ。あなたが愛を注いでくださった。あなたがあなたへの愛を私に注いでくださった。ですからその愛で私はあなたを愛することができます。あなたがご存じのとおりです。あなたがそうしてくださったのですから」と。

そもそも主イエスの問い、「あなたはわたしを愛していますか。」は、「あなたはがんばってわたしを愛するか」ではなかったのです。「今、わたしはあなたに愛を注いでいる。わたしを愛する愛を。だからあなたはわたしを愛することができる。さあ」という招きだったのです。主イエスは私たちにも、愛を告白させてくださいます。もうすでに。さらになおなお。私たちが「主よ、私はあなたを愛します」と申し上げるとき。その言葉は主から与えられた黄金の言葉であることを知ってください。

【羊を飼わせる神】

そんなペテロに主イエスは使命をくださいました。「わたしの子羊を飼いなさい。(15)」「わたしの羊を牧しなさい。」(16)「わたしの羊を飼いなさい。」(17)と少しずつ言葉はちがいますが、「わたしの羊」つまり、主イエスの教会を養い、守り、導くことをゆだねてくださったのでした。もともと教会の牧者(羊飼い)は主イエスです。10章で主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(10:11)とおっしゃいました。ペテロは、そして私たちは主イエスの同労者として働くのです。それは牧師だけではありません。役員もそうです。役員でない人も。私たちはたがいがたがいの牧者です。愛を注ぎ合って、愛するいのちを注ぎ合って。

先週は信愛、今週は明野で教会役員任命式が行われます。「私にはとても無理です」と言う方がよくおられます。自分が罪のない、清く正しい立派な人でなければならないと思うのです。けれども教会役員の資格はただひとつ。「主イエスが自分に愛を注いでくださっており、その愛を神と人へあふれ出させてくださっている」これを知っていることだけです。これはすべてのキリスト者がすでに知っていることです。みなさんもすでに。

私たちが立派なキリスト者になって立派に使命を果たそうと考えるなら、それは教会を立て上げることになりません。競争と落胆と高慢をもたらすだけです。主語が自分になっているからです。主語は主イエスであることを忘れないなら、主イエスが教会を立て上げてくださいます。私たちを通して。


(教会学校メッセージ「イエスの受洗」ルカの福音書3:15-22)


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/08

礼拝メッセージ「近づく神」ヨハネの福音書20章30-31節 大頭眞一牧師 2024/04/07


20章でいったん終わったかのように思えるヨハネの福音書。けれどもヨハネの福音書には21章が加えられています。そうまでしてこの福音書が、つまり主イエスが伝えようとしたことに、今朝、耳を傾けます。

【イエスが愛された教会】

この福音書の中で、ヨハネは自分のことをたびたび、「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。ひとつには、すべてのキリスト者は「イエスが愛された弟子」であることを、ヨハネが代表して述べています。けれどもそこにはもうひとつの意味が。

弟子たちのリーダーはやはりペテロ。ヨハネもまたペテロのリーダシップを尊重していました。イエスの墓に先に着いても、中に入らずにペテロの到着を待ったことからも、それはうかがえます。伝承によれば、ペテロは皇帝ネロの迫害によってローマで紀元67年ごろ殉教したとされます。一方でヨハネにまつわる伝承は、12弟子の中でヨハネが唯一殉教をまぬがれ、現在のトルコ西部のエペソの町を中心とする諸教会を牧した、とします。そんな辺境の小さな群れに対して、ヨハネは「私たちもまた『イエスが愛された弟子』なのだ」、と語ったわけです。

地域教会の歩みはさまざまです。明野キリスト教会にも京都信愛教会にもそれぞれの歴史があり、それぞれの習慣があり、それぞれの文化があります。けれどもどの教会にも、共通点があります。それは「イエスが愛された弟子、イエスが愛された教会」だということです。

【破れなかった網】

ところがヨハネの群れに異端が現れます。キリストの十字架が私たちの罪のためであることを否定する人びとです。ヨハネの手紙第一にあります。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(Ⅰヨハネ1:8)。ヨハネの群れは、この「罪がない」という人びとによって傷つき弱ります。そんな中で異端に立ち向かい、主イエスの十字架による罪からいのちへの回復を信じる人びとは苦闘を続けます。そしてやがて、ペテロを中心とする群れと交わりを強めて行ったといいます。

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」(6)と主イエスが網を打つことを命じ、その結果、引き上げることができなかったほどの百五十三匹の大きな魚が入ったのに網が破れなかったできごと。その記事をヨハネが付け加えたのには、そんな事情がありました。ペテロの群れとヨハネの群れ、そのみんなが一つの教会です。そして網は破れないのです。主イエスが教会をひとつとするのです。ひとつとし続けるのです。

【聖餐が生み出すもの】

「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。」(13)を、教会は伝統的に聖餐を意味すると理解してきました。ペテロの群れとヨハネの群れの間にはたくさんのちがいもあったでしょう。たとえばヨハネの福音書の独特な語り口は、慣れない人びとにとっては難しく感じられたはずです。ですからペテロの群れとヨハネの群れがひとつの群れとして生きていくのは、理解の一致ではありませんでした。結束し連帯しようという人間の努力による一致でもありませんでした。それはいのちの一致。

聖餐は見えない神の恵みの見えるかたち、といつも申し上げています。私たちが弱り果てているときにも、信じることができないときにも、主イエスが一方的に私たちにいのちを注ぎ、信仰を注いでくださる、それが聖餐。

たがいに異なる人びとが、異なる群れが聖餐に与るときにも同じことが起こります。主が起こしてくださいます。考え方のちがい、礼拝のちがい(たとえば明野では献金後の感謝祈祷は起立、信愛では着席)があっても、いえ違いがあるときにこそ、主イエスが注ぐいのちが、ひとりひとりからあふれて仲間へと向かうのです。そして「よくぞあなたもいのちを注がれた。そんなあなたを私は喜ぶ。あなたの住む場所にも、主イエスは近づいてくださったのか。異なる器を通して、異なる言葉を通して。そのようにして、あらゆる手段で私たちに、私とあなたに届いてくださった主イエスを喜ぼう」と。

たがいに一致できるから聖餐を共にするのではありません。聖餐によって注がれるいのちによって、一致が生まれるのです。一致し得ないように思われるさまざまな違いを、主イエスのいのちはそのままにしておかないのです。自らの伝統にしがみつくのではなく、主イエスのいのちに持ち運ばれて、違いがあるからこそ生み出すことができる、すぐれた合金のような交わりを、教会を生きるのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/04/07

2024年度も「一年12回で聖書を読む会」が開催されます 参加者募集中!

 


 (クリックするとさらに大きく表示されます)


恐れ入りますが(変更)と記されている部分は上記のチラシと内容が変わっています

京都信愛教会の「一年12回で聖書を読む会」

2024年4月から開催! どなたでも参加者募集! 参加費無料!

永遠のベストセラー 聖書は何を語っているか

けれども、ひとりで読むとよく分からないことが多く、挫折する方が多いのです。そこで!

1年12回でともに聖書を読みます。おひとりでも参加出来ます。

「京都信愛教会での対面」と「Zoomでの参加」の、どちらでも参加いただけます。欠席された場合も、その回の録画をご覧いただけます。

「聖書(日本語)」は、教会に備え付けのものをご利用いただけます。

【開催予定】1年目の方向けは10:30より

毎月第3土曜日10:30-12:00
  1. 4/20(土) 天地創造(変更)
  2. 5/18(土) アダムとその妻(変更)
  3. 6/15(土) 族長たちの物語(変更)
  4. 7/20(土) 出エジプトと十戒(変更)
  5. 8/17(土) 王と神殿(変更)
  6. 9/21(土) 預言者の叫び(変更)
  7. 10/19(土) 来るべきメシア(変更)
  8. 11/16(土) 詩歌と知恵文学(変更)
  9. 12/21(土) キリストの誕生(変更)
  10. 1/18(土) 十字架と復活(変更)
  11. 2/15(土) 教会の誕生(変更)
  12. 3/15(土) 終わりのことがら(変更)

【開催予定】2年目の方向けは9:00(変更)より

毎月第3土曜日09:00-10:30(変更)
  1. 4/20(土) カインとアベル
  2. 5/18(土) ノアの洪水
  3. 6/15(土) サムソンとデリラ
  4. 7/20(土) エリヤとエリシャ
  5. 8/17(土) 魚にのまれたヨナ
  6. 9/21(土) 神はそのひとり子を
  7. 10/19(土) 山上の説教
  8. 11/16(土) 神の国の譬え
  9. 12/21(土) ペテロの生涯
  10. 1/18(土) 律法と福音
  11. 2/15(土) イエス・キリストとは?
  12. 3/15(土) 聖書とは何か?
2023年度は約15人が参加!
 「聖書の内容がよく分かる」「続けて来てみたい」と、とても好評です!

講師:大頭眞一牧師

大頭眞一 (おおず・しんいち)

英国マンチェスターのナザレン・セオロジカル・カレッジ(BA、MA)と関西聖書神学校で学んだ聖書の専門家。京都信愛教会・明野キリスト教会主管牧師、関西聖書神学校講師。聖書に関する著書多数。

この会のテキストは「聖書は物語る・一年12回で聖書を読む本」「聖書はさらに物語る・一年12回で聖書を読む本」として出版されています。参加者には差し上げます。

※どのようなお立場・信仰をお持ちの方でも参加出来ます。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

問い合わせは教会宛に電話、またはメールください(上記のチラシを参照ください)

2024/03/31

イースター礼拝メッセージ「いのちを得させる神」ヨハネの福音書20章30-31節 大頭眞一牧師 2024/03/31


イースターおめでとうございます。この朝も復活の主にお会いし、そのいのちを注いでいただきましょう。

【いのちを得るため】

今日の箇所はまるでヨハネの福音書の結論のようなところ。続く21章の意味については来週語りますが、20章まででヨハネは一度、筆を置きました。ヨハネはここまでで自分の目的は達成されたと考えたからです。そしてその目的とは「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(31)、つまり読者がイエスを信じていのちを得るため。いのちは成長するもの。生まれた赤ちゃんはそのままではなく、日々大きくなっていきます。同じように、神の子となった私たちのいのちが、ますます成長すること、それがヨハネの、そして神さまの願いです。

【いのちとはなにか】

ヨハネの福音書には七つの奇蹟が記されています。そのひとつひとつが、いのちとは何かを語っています。喜びのイースターに、私たちのうちにあるいのちの豊かさを振り返ることにしましょう。

  1. カナの婚礼のしるし(2章) 主イエスは婚礼で水を最上のぶどう酒に変えました。主イエスは良きものに変えるお方。私たちにあるいのちもまた、喜びのいのち、よきいのち、愛し愛されるいのちです。
  2. 王室の役人の息子のいやしのしるし(4章) 主イエスは言葉で、遠くで死にかかっていた息子をいやしました。主イエスの思いはどこにも届きます。私たちのいのちが健やかないのちであるようにと。活き活きとあふれ出す愛のいのちであるようにと
  3. 三十八年の病のいやしのしるし(5章) 「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」の一言で主イエスはいやしました。絶望の中で横たわっていた病人は立ち上がり、歩きだしました。希望のいのちに満たされて。
  4. 五つのパンと二匹の魚のしるし(6章) イエスが分けられると、食べて余ったパン切れで十二のかごがいっぱいになりました。イエスのおられるところ不足は満たされます。私たちもまた奪い合うのではなく、満たし合ういのちを生きます。
  5. 水の上を歩く主イエスのしるし(6章) 弟子たちのところに来てくださり、「わたしだ。恐れることはない。」と言うイエス。私たちは恐れから解き放ついのちに生きます。
  6. 目の見えない人のいやしのしるし(9章) 主イエスが唾で作った泥を目に塗り癒した人の目は開かれ、心も開かれ主イエスを受け入れました。神と人とに開かれた私たちのいのち。主イエスが手づからそのように。
  7. ラザロのよみがえりのしるし(11章) ラザロはそのうち死んだでしょう。けれども、このしるしによって、主イエスのいのちは死よりも強く、死を超えるいのちであることが明らかに。そんないのちが私たちのうちに。

【主イエスの十字架と復活のしるし】

これら七つのしるしに加えて、ヨハネは最大のしるしである主イエスの十字架と復活を記しました。過ぎ越しの小羊として、主イエスがご自分をお献げくださいました。それは私たちにいのちを注ぐためでした。いのちを注がずに、私たちをそのままにしておくことが、おできにならなかったからです。そして主イエスは復活されました。私たちを主イエスなしで放っておくことが、おできにならなかったからです。

拙著「聖なる神の聖なる民」(レビ記)の第二版がもうすぐでます。帯は初版と同じで、日本イエス出身のブックデザイナー長尾優さんの作。

聖者って、きよい、っていうよりか、はみ出すほどの激しく愛しちゃう人。ささげ物と掟が満載、律法の要塞のようなレビ記。そこに描かれたを、神に激しく愛されているから、過剰な激しい愛で愛するようになる人の姿だと読み解くパスター・オオズが失敗しても愛の実験を、愛のリハビリを繰り返し続けようと語りかける講解第4弾。

私たちのいのちのすばらしさは、そのいのちが私たちのうちにとどまらないところにあります。自分の過去・限界・制約・恐れからはみ出すようにして、神へ・仲間へ・世界へと愛があふれ出します。もうすでにそのようにされている私たち。さらにますますそのようにされていく私たちたがいを喜びましょう。神から人へとはみ出してくださったお方によって。


ワーシップ(Bless) 讃美歌54番「喜びの日よ」


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/03/26

井上 直さんの聖書絵画展「贖いの路」が行われました 2024/03/18-24

こちらでのお知らせが事後になってしまいましたが、3/18-24(月-土)の7日間、井上 直さん聖書絵画展「贖いの路」が行われ、様々な方にご来場いただき、ありがとうございました。 

本格的な絵画展を行うのは、当教会では初めての事であったと思います。会堂1階と2階を上手くレイアウトくださり、大小71枚の油絵を出展くださいました。

今回は特にレント(受難節)の時期に行われたことで、神さまの愛を視覚を通しても味わうことが出来、教会員一同、感謝でした。

これからの井上 直さんの創作活動にも主の豊かな導きがありますようにお祈りいたします。

2024/03/24

棕櫚の主日礼拝メッセージ「訪れる神」ヨハネの福音書20章24-29節 大頭眞一牧師 2024/03/24


「疑い深いトマス」として有名なトマス。ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」(25a)と言ったのですが、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25b)と言います。主イエスはそんなトマスを訪ねてくださいました。

【八日後】

「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。」(26a)とあります。ユダヤでは足掛けで日数を数えますから、当時の八日後は、今でいう七日後です。つまり復活の主日(日曜日)の次の主日です。その日、主イエスは復活を信じた弟子たちと、まだ信じることができないトマスに現れたのです。

キリスト教会は、このことが礼拝を象徴しているのだと語り継いできました。礼拝はすべての人に開かれています。礼拝に集う人びとのなかには、すでにイエスに出会い、イエスを主と告白し、復活したイエスと共に歩む人々もいます。しかし礼拝に集うのは、そのような人びとだけではありません。イエスに会いたい、イエスを信じたいと願いながらも、信じることができない人びともいます。あるいは、聖書の教えやキリスト教に興味はあるのだけれども、まだ納得できない、分からないという人びとも。

けれども主イエスはそんなすべての人びとを訪ねてくださいます。「戸には鍵がかけられていたが、」(26b前半)は、恐れや疑いに閉ざされた私たちの心も表しているのでしょう。そこへ、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」(26b後半)と言われたのでした。

ですから私たちはまだ信じることができないでいる人びとも礼拝に招きます。たとえその心が閉ざされていたとしても、主イエスが入ってくださいます。先週も申し上げましたが、信愛の召された方の言葉が心を離れません。「信仰は神さまが与えてくださるものだよ」と。信仰のないトマスに、信仰のない私たちに、主イエスが信仰を与えてくださるのです。私たちをあわれんで。主イエスを知らないままにしておいけなくて。

【わたしの脇腹に】

主イエスはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と。これはなんともすさまじいお言葉です。カラバッチョの「聖トマスの不信」(1602年ごろ)では、主イエスがトマスの腕をつかんで、むりやりご自分の傷に指を入れさせています。トマスは主イエスの言葉だけで信じたと思いますが、この絵は主イエスのお心を表現したものでしょう。主イエスにとって耐えがたいのは、傷の痛みではありません。愛するトマスが、そして愛する私たちが信じることができないで、イエスと共に生きることができないことに、耐えることがおできにならないのです。そのために十字架に架かられ、そのために十字架の傷を差し出してくださるのです。

【私の主、私の神よ】

主イエスの愛はトマスの告白を引き出しました。「私の主、私の神よ。」(28)は、人類の口から出た最もすばらしい言葉。さまざまな異端がイエスが神であることを否定する中で、この告白は教会の信仰の道しるべのひとつとなってきました。主イエスに出会うことは、主イエスの愛に出会うこと。そのとき私たちは愛をこめて「私の主、私の神よ」と申し上げます。

【見ないで信じる人たちは幸いです】

「見ないで信じる人たちは幸いです。」(29)はトマスを、また不信仰な者を叱咤する言葉だと誤解されがちです。けれども、「見ないで信じる人たち」とは私たちのことです。使徒たちのように復活の主イエスを肉眼で見たわけではないけれども、主イエスに出会い、主イエスの愛に出会い、主イエスの傷によって癒され、主イエスの復活のいのちに生きる私たち。その私たちに、主イエスは「あなたがたは幸いだ。わたしはあなたがたを喜ぶ。力の限り生きよ、力の限り愛せよ」と祝福してくださっているのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/03/17

礼拝メッセージ「息を吹きかける神」ヨハネの福音書20章19-23節 大頭眞一牧師 2024/03/17


先週の箇所で、イエスはマグダラのマリアに「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」(17)と語り、マリアは弟子たちに伝えました。ところが「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」(19a)のでした。

【恐れる弟子たち、恐れる私たち】

弟子たちが恐れたのは、自分たちが主イエスのように処刑されるのではないか、ということ。私たちもこの個所を読むとき恐れを感じます。そして「命の危険に迫られるときに私たちは殉教することができるだろうか。いやできそうにない。つまり自分には信仰が足りないのだ。だからもっと祈って、もっと聖書を読んで、堂々と殉教できる人になろう」とと考えたりします。

けれども、紀元155年ごろに殉教の死をとげたポリュカルプスという司教がいます。その殉教伝は「殉教は自ら進んでするものではなく、避け得るなら避けるべきで、それでも神によってえらばれたときに、神がそれを耐え忍ばせてくださる」と記しているのです。弟子たちの恐れを取り除いたのも、弟子たち自身の努力や決心ではありませんでした。主イエスが彼らのいる部屋の戸を通り抜け、彼らの心の恐れの戸を通り抜けて、彼らにお会いくださったのでした。

【弟子たち主を見て喜べり】

主イエスが繰り返された「平安があなたがたにあるように。」(19と21)の「平安」は単に争いや戦いがない、ということではありません。神の祝福が満ちている、ということ。神の祝福は恐れていた弟子たちに満ちました。「イエスは手と脇腹を彼らに示された」(20)、そのときに。

主イエスの手と脇腹の傷は、弟子たちの心の傷でもあります。主イエスを見捨てた自分たちの不信仰と愛のなさを思い出させるからです。しかし主イエスはその傷を見せながら「平安があなたがたにあるように。神の祝福をあなたがたに満たしてあげよう」とおっしゃるのです。彼らの罪、不信仰も愛のなさも赦されました。主イエスは彼らを心から受け入れてくださったのです。今、彼らは祝福に満たされています。主イエスに傷があるゆえに。自分たちが主イエスを裏切らなかった場合よりも、はるかに大きな祝福に。罪のどん底に、自分でも赦すことができない裏切りの真ん中に、主イエスは祝福を造り出し、祝福で満たしてくださったのでした。私たちも。

【息を吹きかけて】

「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22)は、創世記2章を想起させることを意図しているのでしょう。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)とあります。聖霊によって私たちは生きるものとなります。いのちを回復されます。神を愛せず、仲間を愛せず、自分を責める思いの中で、恐れに支配されていた私たちが、生きるものとなったのです。

【罪の赦しの生活】

そのようないのちの生活のすばらしさを主イエスは続けて語ります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」もちろん、私たちに罪を赦す権威がある、というのではありません。罪を赦すことができるのは、神おひとりです。主イエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21c)と私たちを派遣なさいます。私たちが、家族に、地域に、職場や学校に派遣されて行くとき、そこにいのちがもたらされます。愛なき言葉と思いと行いの私たち。私たちは、それにもかかわらず神に赦されて、神の祝福に満たされて、癒されつつあります。そんな私たちを通して、神さまは周囲の人びととの間に新しい関係を造り出してくださいます。赦された私たちを通して、世界が変わり始めるのです。

そこにあるのは罪の記憶による自責の念に、孤独にうずくまる生き方ではありません。「あなただって」と責め合う生き方でもありません。「私は神に赦された。神の祝福に満たされた。あなたもこの赦しを知ることができるように。赦す主イエスに出会うことができるように。そしてあなたと私が、共に赦し合い、覆い合い、癒し合う仲間となることができるように」と招く生き方です。そのように招くとき、主イエスが働いてくださいます。私たちの遣わされて行く人びとに祝福を満たすために。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)