毎週日曜日、以下の礼拝を行っています。ぜひお越しください。
09:30~ 教会学校 乳幼児~高校生、ぜひご家族とご一緒に
10:30~ 主日礼拝 賛美、聖書のメッセージなど
19:00~ 夕拝 朝の礼拝には時間が合わない方のために
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2005年08月28日

主日礼拝「十字架のあがない~恐怖からの解放」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

聖書
ヘブル人への手紙2章14-18節
説教題
十字架のあがない~恐怖からの解放
説教者
加藤郁生師
出席者数
65人

聖書: ヘブル人への手紙2章14-18節 (中心聖句は15節) 口語訳

14
このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
15
死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
16
確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。
17
そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
18
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

礼拝メッセージの要約 「十字架のあがない~恐怖からの解放」 加藤郁生師

人間にとって避けることの出来ないものは、死であります。 どんな人も死を免れることはできません。 そうであるならば、次の問題が生じます。 すなわたち、わたしたちにとって死はどういう意味を持つのか、ということです。

多くの人にとって死はやはり恐ろしい、忌まわしいものでしかありません。 聖書にも、そのような人間の姿を 「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていたものたち」とあります。

パウロのもこのことにふれて言いました。

だれがこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

パウロも人間が死ぬべき存在であることをよく知っていました。 ですからパウロにとっての救いは、何よりも死から救いでした。 はたして救いはあるでしょうか?

これに対する聖書の答えは、もちろんイエスです。 それは救い主イエス・キリストによってもたらされました。

第一に、キリストは罪を滅ぼしました。 キリストは死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の十字架の死によって滅ぼしました。 死が滅ぼされたならば、残されたものは命です。 わたしたちは永遠の命に生きるものとされたのです。

第二に、キリストはわたしたちを死の恐怖から解放しました。 十字架によって死を滅ぼしてくださったお方は、 死の恐怖のために奴隷となっていたわたしたちをも解放してくださったのです。 わたしたちは死への恐怖ではなく、永遠の命の希望に生きるものとされたのです。

わたしたちも信仰者として死の恐怖から解放されたものとして、 喜びと感謝を持って生きる者とさせていただきましょう。

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2005年08月27日

京滋地区教会学校上級生バイブルキャンプ

同じ教団の 大津キリスト教会 にて、 京滋地区の教会学校上級生バイブルキャンプが行われ、 当教会からも、子ども 3人、奉仕者 4人が参加しました。

小学校の上級生を対象に日帰りで、近くの 皇子が丘公園 でボール遊びをしたり、みんなでご飯を食べたり、メッセージを聞いたりしました。

小さな子も多く参加して、十分に楽しむことが出来、感謝でした。

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2005年08月21日

主日礼拝「キリストの福音にふさわしく歩む」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

聖書
ピリピ人への手紙1章27-30節
説教題
キリストの福音にふさわしく歩む
説教者
加藤郁生師
出席者数
55人

聖書: ピリピ人への手紙1章27-30節 (中心聖句は27節) 口語訳

27
ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、
28
かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。
29
あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
30
あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

礼拝メッセージの要約 「キリストの福音にふさわしく歩む」 加藤郁生師

27節に

ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。

という言葉があります。 キリストの福音にふさわしく生活するとは、どういうことでしょうか?

  1. キリストの市民として誇りをもって生きる

    「ふさわしく生活する」とは、市民として生きると言う意味がこめられています。 当時ピリピはローマの直轄地でした。 非常に立派な町として市民は豊かな生活を謳歌していました。 ピリピ市民であることは誇りでした。

    わたしたちも神の御国の市民です。 もちろんそれはわたしたちの努力や功績によって与えられたものではなく、 十字架のあがないによる恵みの特権です。 だからこそわたしたちは謙遜を持ってキリストの福音にふさわしく、 感謝と誇りをもって天国の市民として歩みたいと思うのです。

  2. キリストの市民として責任をもって生きる

    天に市民権を持つわたしたちは特権と同時に責任をもちます。 しかしそれは素晴らしい責任です。

    ホーソンは天の市民としての責任を、以下のように説明しています。

    義を求めること、平和、信仰、希望、愛、奉仕、礼拝をもって生きること。

    またわたしたちは何よりも 十字架の救いを宣べ伝える福音宣教に努める者とさせていただきたいと思います。 主はキリストの福音に生きるわたしたちを豊かに祝してくださるのです。

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2005年08月14日

主日礼拝「ナアマンの決心」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

聖書
列王紀下5章1-19節
説教題
ナアマンの決心
説教者
加藤郁生師
出席者数
56人

聖書: 列王紀下5章1-19節 (中心聖句は14節) 口語訳

1
スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、重い皮膚病をわずらっていた。
2
さきにスリヤびとが略奪隊を組んで出てきたとき、イスラエルの地からひとりの少女を捕えて行った。彼女はナアマンの妻に仕えたが、
3
その女主人にむかって、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病をいやしたことでしょう」と言ったので、
4
ナアマンは行って、その主君に、「イスラエルの地からきた娘がこういう事を言いました」と告げると、
5
スリヤ王は言った、「それでは行きなさい。わたしはイスラエルの王に手紙を書きましょう」。そこで彼は銀十タラントと、金六千シケルと、晴れ着十着を携えて行った。
6
彼がイスラエルの王に持って行った手紙には、「この手紙があなたにとどいたならば、わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼の重い皮膚病をいやしていただくためです」とあった。
7
イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、重い皮膚病の男をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい」。
8
神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。
9
そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。
10
するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。
11
しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、重い皮膚病をいやすのだろうと思った。
12
ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。
13
その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。
14
そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。
15
彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」。
16
エリシャは言った、「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」。彼はしいて受けさせようとしたが、それを拒んだ。
17
そこでナアマンは言った、「もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に二駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。
18
どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように」。
19
エリシャは彼に言った、「安んじて行きなさい」。ナアマンがエリシャを離れて少し行ったとき、

礼拝メッセージの要約 「ナアマンの決心」 加藤郁生師

昔シリヤの国にナアマンという将軍がいました。 彼は非常に有能でしたが、重い皮膚の病におかされていました。 ある時イスラエルの預言者エリシャの評判を聞いたナアマンは意を決してエリシャのもとを訪れます。

しかしエリシャの言葉はナアマンにとって全く期待はずれでありました。

あなたはヨルダンに行って七たび身を洗いなさい。 そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう。

せっかく苦労して来た結果、 聞くことの出来たエリシャの言葉が拍子ねけするほどあっさりしたものであったゆえ、 ナアマンは怒って帰ろうとしましたが、 側近の説得によって思い直してヨルダン川に身を浸したところ、 あれほど苦しんでいた病がいやされ清められたのです。

そこでナアマンは下って行って、 神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、 その肉がもとにかえって幼子のようになり、清くなった。

このように人間とは不思議なもので、 神のことばになかなか素直に心を開いて決心することができないものです。 時に自分の経験が、時に知識が、時にプライドが、 神のことばに聞き従うことを妨げます。

神のことばと言えば、わたしたちが素直に聞き従うべき言葉があります。 それは十字架の血潮のきよめです。

…御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

このようにわたしたちもナアマンのように、 いっさいの自負心や人間的思いをすてて、 ひたすら血潮のきよめにあずかって神の恵みに生きる者とさせていただきましょう。

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2005年08月07日

主日礼拝「お言葉ですからの信仰」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

聖書
ルカによる福音書5章1-11節
説教題
お言葉ですからの信仰
説教者
加藤郁生師
出席者数
55人

聖書: ルカによる福音書5章1-11節 (中心聖句は5節) 口語訳

1
さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
2
そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
3
その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
4
話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5
シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
6
そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
7
そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
8
これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
9
彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
11
そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

礼拝メッセージの要約 「お言葉ですからの信仰」 加藤郁生師

ゲネサレ(ガリラヤ)湖畔で話をしておられたイエス様がペテロに言われました。

沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。

このイエス様の言葉を聞いた時、 きっとペテロの心に当惑と葛藤が生じたことでしょう。

自分は一生懸命夜通しかかって漁をしたのだ。 しかし何も取れなかった。 イエス様はもともと大工ではないか。 漁のことが分かるのだろうか?

そう思ったとしても不思議はありません。 しかしここで、ペテロはイエス様のお言葉に聞き従いました。

先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。 しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。

はたしてペテロがイエス様のお命じになったとおりにすると、 びっくりするほどの魚がとれました。

この事はわたしたちに大切なことを教えます。 わたしたちもペテロと同じように自分の経験、 知恵に頼って行き詰まることがあります。

しかしそのような時にこそ主のみ言葉を求め、 「お言葉ですから」とみ言葉に従いたいと思います。 そうするならば主はわたしたちの思いをはるかに超えた祝福を与えてくださるのです。

このことについて信仰の先人は多くの言葉を残しています。

信仰とは何かというなら、外面的な環境や内面的な感情によってではなく、 神様が言われたという理由で、それを真実であると信じることであります。 (R.C.マックィルキン)

わたしたちも「お言葉ですから」の信仰を持って歩んでいきましょう。

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