毎週日曜日、以下の礼拝を行っています。ぜひお越しください。
09:30~ 教会学校 乳幼児~高校生、ぜひご家族とご一緒に
10:30~ 主日礼拝 賛美、聖書のメッセージなど
19:00~ 夕拝 朝の礼拝には時間が合わない方のために
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2006年01月29日

信仰を証しする恵みの場としての礼拝堂

10:30より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
出エジプト記40章16-38節
説教題
信仰を証しする恵みの場としての礼拝堂
出席者数
71人

聖書: 出エジプト記40章16-38節 (中心聖句は34節) 口語訳

16
モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。
17
第二年の正月になって、その月の元日に幕屋は建った。
18
すなわちモーセは幕屋を建て、その座をすえ、その枠を立て、その横木をさし込み、その柱を立て、
19
幕屋の上に天幕をひろげ、その上に天幕のおおいをかけた。主がモーセに命じられたとおりである。
20
彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、
21
箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。主がモーセに命じられたとおりである。
22
彼はまた会見の天幕なる幕屋の内部の北側、垂幕の外に机をすえ、
23
その上にパンを列に並べて、主の前に供えた。主がモーセに命じられたとおりである。
24
彼はまた会見の天幕なる幕屋の内部の南側に、机にむかい合わせて燭台をすえ、
25
主の前にともしびをともした。主がモーセに命じられたとおりである。
26
彼は会見の幕屋の中、垂幕の前に金の祭壇をすえ、
27
その上に香ばしい薫香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。
28
彼はまた幕屋の入口にとばりをかけ、
29
燔祭の祭壇を会見の天幕なる幕屋の入口にすえ、その上に燔祭と素祭をささげた。主がモーセに命じられたとおりである。
30
彼はまた会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗うためにそれに水を入れた。
31
モーセとアロンおよびその子たちは、それで手と足を洗った。
32
すなわち会見の天幕にはいるとき、また祭壇に近づくとき、そこで洗った。主がモーセに命じられたとおりである。
33
また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。
34
そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
35
モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
36
雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。
37
しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。
38
すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。

教会は、神さまを礼拝するために招かれた信仰者の群れです。 そし教会は、そのための礼拝堂を必要とします。 わたしたちが礼拝を大切にすることは、 わたしたちに与えられている礼拝堂を大切にすることにつながっています。

ですけれども、礼拝堂は決して華美である必要はありません。 むしろ、わたしたちの信仰の思いが主なる神さまに向けられるように、 心配りがなされるべきです。

特に大事なことは礼拝堂の三つの要素です。

  1. 礼拝堂に十字架が掲げられていること 礼拝堂の講壇側の正面に十字架が掲げられているか、 ということは大切です。 わたしたちは礼拝堂で十字架を仰ぎます。 そして礼拝をすることが主の贖いの恵みによる行為であることを悟るのです。

  2. 礼拝堂に講壇があること 神は講壇から、神が油注がれた説教者を通して、 わたしたちにみことばを与えてくださいます。 みことばはわたしたちの魂を養う命の糧であり、 またイエス・キリストのよろこばしき福音そのものです。 講壇からのみことばを絶やさないことが、教会の使命なのです。

  3. 礼拝堂に聖餐台が置かれていること 聖餐はキリストがご自身の十字架の死を記念し、 来るべきメシアの宴を待ち望むようにとわたしたちに命じられた礼典です。 それはキリストとの絶えざる交わりを意味します。 わたしたちがこの聖餐台を会堂に置き、 共に主を見上げることの中に恵みの具体化があります。

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2006年01月22日

教会学校焼きそば大会

お昼に、教会学校の焼きそば大会が行われました。

参加者数
(子ども)16人

みんなそれぞれ、野菜を切ったり、材料を焼いたりしておいしく食べることが出来ました。

また、その後には試合形式で、卓球のレクリエーションもしました。

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2006年01月22日

畏れと感謝もって歩む信仰者

10:30より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
出エジプト記20章1-11節
説教題
畏れと感謝もって歩む信仰者
出席者数
77人

聖書: 出エジプト記20章1-11節 (中心聖句は2節) 口語訳

1
神はこのすべての言葉を語って言われた。
2
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
3
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
4
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
5
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
6
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
7
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
8
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
9
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
10
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
11
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

※都合により、本日分の主日礼拝メッセージの要約はありません。

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2006年01月15日

礼拝の民として~わたしたちが行くところ

10:30より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
出エジプト記3章13-22節
説教題
礼拝の民として~わたしたちが行くところ
出席者数
61人

聖書: 出エジプト記3章13-22節 (中心聖句は18節) 口語訳

13
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
14
神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
15
神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。
16
あなたは行って、イスラエルの長老たちを集めて言いなさい、『あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主は、わたしに現れて言われました、「わたしはあなたがたを顧み、あなたがたがエジプトでされている事を確かに見た。
17
それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した」と』。
18
彼らはあなたの声に聞き従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。
19
しかし、エジプトの王は強い手をもって迫らなければ、あなたがたを行かせないのをわたしは知っている。
20
それで、わたしは手を伸べて、エジプトのうちに行おうとする、さまざまの不思議をもってエジプトを打とう。その後に彼はあなたがたを去らせるであろう。
21
わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。
22
女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。

イスラエルの民をエジプトから救い出すべき召されたモーセは、パロ王に向って言わなければなりませんでした。

「わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください。」

この言葉は、単にイスラエルの民を去らせるための方便ではありませんでした。 神さまはイスラエルの民をパロの支配から解放するだけでなく、 荒野で犠牲をささげる礼拝の民として召さたのであります。

このことは、わたしたちが救いということを考える上で忘れてはならない大切なことです。 わたしたちも罪の支配下に置かれていたお互いですが、 今は解放されキリストに属する者となり、礼拝の民となることが出来たのです。

ですから、人が礼拝をささげることは自然なことです。 わたしたちが罪に支配されていた時、わたしたちと神さまとの関係は損なわれ、 わたしたちは礼拝することの喜びを奪われていました。

キリストは、神との平和を失っていたそのわたしたちのために十字架にかかられ、 わたしたちを礼拝の民とするために死んでくださったのです。 この神の愛を知るとき、 わたしたちははばかることなく恵みの座に近づきたいと願わされるのです。

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2006年01月08日

恵みに生きる生活

10:30より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
ローマ人への手紙5章17-21節
説教題
恵みに生きる生活
出席者数
62人

聖書: ローマ人への手紙5章17-21節 (中心聖句は20節) 口語訳

17
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
18
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
19
すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
21
それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

パウロは「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と言いました。 このみ言葉から示さることは、わたしたち信仰者の生活というのは、 恵みに生かされる生活である、ということです。 恵みに生きる生活、それこそが信仰生活の本質です。

パウロの人間論は、決して安易なものではありませんでした。 せっかく罪から救われても、なお、 生きれば生きるほど罪が増し加わってしまう存在であることを知っていました。 それは救わたわたしたちがなお地上で直面する深刻な問題でした。

しかしながらパウロが見出したのは、その増し加わった罪を超えて、 いや増しに増し加わるところの主の無尽蔵の恵みでした。 それは、わたしたちが歩を進めても、はるかかなたに見える虹のようなものです。 救われているわたしたちはチャンネルが切り替わっているのです。 すなわち恵みのチャンネルです。

礼拝とはこの恵みの中心です。 わたしたちは礼拝を通して主の愛、十字架のあがない、 福音のおとずれを味わいます。 礼拝の中に恵みが満ちています。ですから、わたしたちは安んじて礼拝を通して、 自らを主の恵みにひたして、 罪のゆるしの確信と喜びと感謝をもって地上における信仰を全うさせていただきたいのです。

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