毎週日曜日、以下の礼拝を行っています。ぜひお越しください。
09:30~ 教会学校 乳幼児~高校生、ぜひご家族とご一緒に
10:30~ 主日礼拝 賛美、聖書のメッセージなど
19:00~ 夕拝 朝の礼拝には時間が合わない方のために
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2010年02月28日

主日礼拝「神に依り頼む信仰」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
詩篇46篇
説教題
神に依り頼む信仰
説教者
加藤郁生師
出席者数
67人

聖書: 詩篇46章1-11節 (中心聖句は1節) 口語訳

1
神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
2
このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
3
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ
4
一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
5
神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。
6
もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
7
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
8
来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
9
主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
11
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

礼拝メッセージの要約 「神に依り頼む信仰」 加藤郁生師

世の中には「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、 果たして、苦しい時ばかり神に助けを求めることは信仰者としていかがなものでしょうか?

そうたずねられたことがありますが、 答えは「心配ありません。どうぞ神様頼みしてください」です。

何故なら聖書に、 「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」とあるからです。

聖書によりますと、神様はわたしたちの悩みを聞いてくださらないような、小さな小さなお方ではありません。 「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」とエレミヤ書にもある通りです。

その神様の愛は、神のひとり子をわたしたちに与えるほどの愛です(ヨハネ3:16)。 だとしたら、神様の目に高価で尊いはずのわたしたちの願いをお聞きにならないはずがあるでしょうか。

むしろ苦しい時にわたしたちが神様の名を呼ぶことを、主は求めておられるのです。

ですからどうぞ、「悩みの日にわたしを呼べ」と神に依り頼みましょう。 わたしたちの心を神に注ぎだしましょう。 そうするときに、もうすでに救いと解決が与えられているのです。

神にすべてを期待して歩む者とさせていただきましょう。

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2010年02月21日

教会聖会「肉の人ではなく霊の人に」

本日の主日礼拝は、 聖三一コミュニティー教会の足立幹夫師を迎え、 教会聖会として行われました。

聖書
コリント人への第一の手紙3章1~9節
説教題
肉の人ではなく霊の人に
説教者
足立幹夫師
出席者数
75人

聖書: コリント人への第一の手紙3章1-9節 口語訳

1
兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
2
あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3
あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
4
すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。
5
アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
6
わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
7
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
8
植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。
9
わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。

(説教要旨は省略します)

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2010年02月14日

主日礼拝「宣教する教会~何を伝えるのか?」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
マルコによる福音書16章14~20節
説教題
宣教する教会~何を伝えるのか?
説教者
加藤郁生師
出席者数
72人

聖書: マルコによる福音書16章14-20節 (中心聖句は15節) 口語訳

14
その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
15
そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
16
信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
17
信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
18
へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
19
主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
20
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

礼拝メッセージの要約 「宣教する教会~何を伝えるのか?」 加藤郁生師

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」

十字架のあがないを全うされ、復活された主が、わたしたちに託してくださったのは大宣教命令(Great Commission)でした。 ですからわたしたちは託された宣教の内容をしっかりと掴みたいと思うのです。

  1. 神の愛の福音

    わたしたちが伝える福音は、神が大きな愛をもってわたしたちを愛してくださっていることです。 創造の神は、わたしたちを愛する対象としておつくりくださいました。 その神様の最大の愛の証しは、神のひとり子をわたしたちに与えることでした。 御子の福音を通してわたしたちは神の大きな愛を知るのです。

  2. 十字架の福音

    キリストは、わたしたちのために十字架上で罪のあがないを全うしてくださいました。 これにより、キリストを信じるすべての者は確かに救われます。 宣教とはこの素晴らしい知らせを告げることですが、この麗しい良きおとずれを持ち運ぶわたしたちの務めは何と光栄なことでしょう!

  3. 希望の福音

    キリストの救いに預かるわたしたちは、もはや滅びの民ではなく、終わりの時にキリストと同じ栄光の姿に変えられる希望をいただいています。 たとえ外なる人は滅びても、内なる人は新しくなるのです。

    人生に倦みつかれた人、病に苦しむ人、死を恐れる人、絶望している人に、それは何と幸いなメッセージでしょうか? 今日わたしたちはこの希望の福音を宣べ伝えたいのです。

さぁ、この命の福音を伝えましょう!

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2010年02月07日

主日礼拝「キリストが与える平安」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
ヨハネによる福音書14章25~31節
説教題
キリストが与える平安
説教者
加藤郁生師
出席者数
69人

聖書: ヨハネによる福音書14章25-31節 (中心聖句は27節) 口語訳

25
これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
27
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
28
『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
29
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
30
わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。
31
しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

礼拝メッセージの要約 「キリストが与える平安」 加藤郁生師

「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」

主イエスは御受難を受ける前に、弟子たちに平安を約束されました。 わたしたちは主の弟子として、この平安にあずかっています。

  1. キリストを信じる信仰によって与えられる平安

    ローマ書には、「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、~神に対して平和を得ている」とあります。

    平安とは、まず神との平和から来るものです。 そしてそれは、何より十字架にかかってくださった神の御子、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって与えられるのです。

  2. 祈りの内に与えられる平安

    パウロは、事ごとに感謝をもって祈る時に、 「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」によってわたしたちの心が守られることを教えます。

    そうです、神の与える平安は、わたしたちがキリストのみ名によって求めるべきものです。 そしてその祈りは、わたしたちの思いを遥かに超えた恵みをもたらすのです。

  3. 主の臨在によって与えられる平安

    パウロは、「平和の主ご自身が、~あなたがたに平和を与えて下さるように」と祈りました。 臨在の主こそがわたしたちの平安の源であることを知っていたのです。

    わたしたちも主の御臨在の内に歩みましょう。 主がわたしたちと共にあるならば、いかなる試練や困難、災い中にあっても大丈夫です。 臨在の主はわたしたちを、ご自身の平安をもってどんな時にも支えて下さるのです。

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2010年01月31日

主日礼拝「キリストに心奪われる」

10:30より、主日礼拝 が行われました。

聖書
ピリピ人への手紙1章12~30節
説教題
キリストに心奪われる
説教者
加藤郁生師
出席者数
69人

聖書: ピリピ人への手紙1章12-30節 (中心聖句は20節) 口語訳

12
さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。
13
すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、
14
そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。
15
一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。
16
後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、
17
前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。
18
すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。
19
なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。
20
そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。
21
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
22
しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。
23
わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
24
しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
25
こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。
26
そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
27
ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、
28
かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。
29
あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
30
あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

礼拝メッセージの要約 「キリストに心奪われる」 加藤郁生師

パウロという人は、キリストに心奪われた人ではないでしょうか。 パウロ自身も自らを「キリスト・イエスの僕」と言っていますが、文字通りキリストの虜でした。

ピリピ書はそのことを裏付けます。 伝道によって獄に投ぜられたパウロは、色々とあらぬ中傷を受けたようです。 パウロを快く思わない仲間もいたようです。 傷口に塩をぬるような彼らの行為ですが、パウロはそのことをどう受け止めたでしょうか?

「要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」

パウロという人は、キリスト中心なのです。 自分中心だとこうはいきません。 「自分が傷つけられた、自分が苦しめられた、自分が…、自分が…」と物事に煩悶するのがわたしたちです。

しかしその視点をキリストに変えると、全くもののとらえ方が変わってくるのです。

「わたしが~待ち望むことは、~わたしの身によってキリストがあがめられることである」

キリストに心を向けることは、わたしたちをこの世の思い煩いや誘惑から解放します。 わたしたちの行いが「自分」ではなく、「キリスト」にとって喜ばれることの大切さが分かる時、わたしたちは神に一歩近づくことができるのです。

ハレルヤ、キリストをあがめましょう!

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