毎週日曜日、以下の礼拝を行っています。ぜひお越しください。
09:30~ 教会学校 乳幼児~高校生、ぜひご家族とご一緒に
10:30~ 主日礼拝 賛美、聖書のメッセージなど
19:00~ 夕拝 朝の礼拝には時間が合わない方のために
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2005年10月30日

主日礼拝「神はわがやぐら」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
詩篇46篇
説教題
神はわがやぐら
出席者数
66人

聖書: 詩篇46章1-11節 (中心聖句は1節) 口語訳

1
神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
2
このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
3
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ
4
一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
5
神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。
6
もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
7
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ
8
来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
9
主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
10
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
11
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

礼拝メッセージの要約 「神はわがやぐら」 加藤郁生師

1517年、ドイツのマルチン・ルターは時の教会に抗議して、 ウィッテンベルク城の扉に95カ条の提題を貼り付けました。

宗教改革はここから始まりましたが、 わたしたちは今もルターのスピリットに多くを学びます。

  1. ルターの動機に学ぶ

    ルターは決して教会の組織や制度を変えようとして 運動を起こしたのではありませんでした。 ルターの志した動機は、 御言葉の真理に従って信仰による救いを福音として指し示すことでした。 それは人間の行いによって獲得する救いではなく、 キリストのあがないを信じて受けとる救いであり、 神の恵みによるものでした。 わたしたちもこのスピリットを受け取って行きたいと思います。

  2. ルターの改革の意義に学ぶ

    ルターの改革は、教会が神の民であるという自覚を促すものでした。 ルターは信仰によって義とされた魂はすべて、 キリストの体である教会に等しくつながり、 教会を建て上げる使命にあずかっていることを明かにしたのです。 ですからルターは、万人祭司を唱え、聖書のドイツ語翻訳をしました。 ルターの努力は、信仰者はすべて、 神の教会のかけがえのない一員であることを教えるのです。

  3. ルターの神と御言葉への信頼に学ぶ

    改革以来、ルターの歩みは試練と困難に満ちていました。 しかしルターは御言葉に依り頼みました。 特にルターは詩篇46篇に親しみ、 そこから「神はわがやぐら」という賛美歌を作り愛唱しました。 御言葉と賛美こそがルターの力でした。 わたしたちもこの終末の時代に、 御言葉と賛美をもって福音を宣べ伝えるお互いとさせていただきたいものです。

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2005年10月23日

主日礼拝「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
ヨハネによる福音書1章19-34節
説教題
見よ、世の罪を取り除く神の子羊
出席者数
73人

聖書: ヨハネによる福音書1章19-34節 (中心聖句は29節) 口語訳

19
さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
20
すなわち、彼は告白して否まず、「わたしはキリストではない」と告白した。
21
そこで、彼らは問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
22
そこで、彼らは言った、「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答えを持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか」。
23
彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
24
つかわされた人たちは、パリサイ人であった。
25
彼らはヨハネに問うて言った、「では、あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」。
26
ヨハネは彼らに答えて言った、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。
27
それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」。
28
これらのことは、ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダンの向こうのベタニヤであったのである。
29
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
30
『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
31
わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
32
ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
33
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
34
わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

礼拝メッセージの要約 「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」 加藤郁生師

洗礼者ヨハネはイエス様を「世の罪を取り除く神の子羊」と称しました。 そのことはいったい何を意味しているのでしょうか?

  1. わたしたちには取り除かれなければならない罪があります。

    ヨハネは「世の罪」と言いました。 人間は世の罪に支配され、永遠の滅びに定められています。 罪をそのままにして、人間の本当の幸福、本当の喜び、本当の将来はありません。 罪は取り除かれなければならないのです。 誰がそれをするのでしょうか?

  2. 神の御子イエス・キリストはわたしたちのいっさいの罪を取り除いてくださいます。

    神の御子イエス・キリストがこの世に来てくださったのは、 わたしたちをこの世のもろもろの罪から救うためでした。 この世には癌を取り除く名医がいますが、 イエス様こそわたしたちの罪を完全に取り除く魂の医者です。 わたしたちの罪がどれほど執拗なものであっても イエス様は完全に取り除ききよめてくださるのです。

  3. キリストはわたしたちの罪を取り除くために神の子羊としてご自身をささげてくださいました。

    旧約では、子羊は罪の身代わりとしていけにえにささげられました。 新約においてキリストはわたしたちの罪のために「神の子羊」として ご自身をささげてくださいました。 このキリストの十字架のあがないによって、わたしたちの罪は完全に取り除かれ、 わたしたちは救われるのです。 ヨハネは「見よ」と言いました。 わたしたちもキリストを仰ぎ見て、 信仰をもってキリストを信じ、 救いの恵みにあずかるお互いとさせていただきましょう。

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2005年10月16日

主日礼拝「イエス様との交わりの内に歩むことの幸い」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
マルコによる福音書5章25-34節
説教題
イエス様との交わりの内に歩むことの幸い
出席者数
60人

聖書: マルコによる福音書5章25-34節 (中心聖句は30節) 口語訳

25
さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。
26
多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。
27
この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。
28
それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。
29
すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。
30
イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。
31
そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。
32
しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。
33
その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。
34
イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

礼拝メッセージの要約 「イエス様との交わりの内に歩むことの幸い」 加藤郁生師

12年間長血をわずらっていた女が、 イエス様の衣にふれることでいやされました。 どれほどの喜びであったことでしょう。

しかしイエス様はその女をそのまま去らせませんでした。 イエス様は振り返って、あたりを見回しました。 そしてイエス様の前にひれ伏す女にねんごろに語りかけ、 祝福を与えて送り出されました。

この世のご利益宗教的なものは、結果だけを求め、関係を求めません。 しかしイエス様はわたしたちを救い、いやしてくださると同時に、 わたしたちとの継続的な親密な交わり、関係を求めておられるのです。

ヨハネは主との交わりについて記しています。

わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

主とのまじわりをいただく時、わたしたちはキリストの愛に触れ、 大いなる喜びに満たされるのです。

瞬きの詩人と言われる水野源三さんは、キリストの愛に触れた時のことを一篇の詩にしています。

キリストのみ愛に触れた時 わたしの心は変わりました。 喜びと希望の 朝の光がさして来ました。

わたしたちも、キリストの交わりの内に、 キリストの愛に触れる中での喜びと希望に満ちたクリスチャンとしての歩みを 全とうさせていただきましょう。

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2005年10月09日

主日礼拝「良きおとずれを告げる者として」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

説教者
加藤郁生師
聖書
ローマ人への手紙10章9-17節
説教題
良きおとずれを告げる者として
出席者数
64人

聖書: ローマ人への手紙10章9-17節 (中心聖句は15節) 口語訳

9
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
11
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
12
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
13
なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
14
しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
15
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
16
しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
17
したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

礼拝メッセージの要約 「良きおとずれを告げる者として」 加藤郁生師

ローマ書10章には、 わたしたちがよって立つべき救いの大原則が記されてあります。

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、 自分の心で、神が死人中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

このように、わたしたちがどんな罪人であっても、 はっきりとイエスは主でると信じて告白するならば、わたしたちは確かに救われるのです。

ですけれども、ここで忘れてはならない大切なことがあります。 すなわち、この福音を伝える者がなくてはならないということです。

しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。 聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。 宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 『ああ、麗しきかな、良きおとずれを告げる者の足は』

確かに福音は聞くことなしに信じることが出来ませんし、 聞くことは宣べ伝える者なしにありえません。 すなわち、救霊のわざはわたしたちの宣教にかかっているのです。

ですから、わたしたちはこの時代に大胆に福音を宣べ伝える者となりたいと思います。

わたしたちは福音を宣べ伝える者として三つのことに取り組みたいと思います。

  1. 救霊のために祈ること
  2. 教会の集会やプログラムに参加すること
  3. 福音を語る機会が与えられたら御言葉を伝えること

わたしたちも良きおとずれを告げる者の足として主に仕えてまいりましょう。

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2005年10月02日

主日礼拝「土の器の中に働く神の力」

10:15より、主日礼拝 が行われました。

聖書
コリント人への第二の手紙4章7-12節
説教題
土の器の中に働く神の力
説教者
加藤郁生師
出席者数
59人

聖書: コリント人への第二の手紙4章7-12節 (中心聖句は7節) 口語訳

7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
8
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
9
迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
11
わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。
12
こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。

礼拝メッセージの要約 「土の器の中に働く神の力」 加藤郁生師

パウロは言いました。

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。 その測り知れない力は神のものであって、 わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

人間は土の器です。 神様から造られた被造物です。 このことはわたしたちを謙遜にし、わたしたちに平安を与えます。

しかし人間はついつい自分が土の器であることを忘れ、 分不相応のことをしてしまいます。 そして疲れ弱り、つまずきます。 ですからわたしたちは、 自分が陶器師たる神様の手にある土の器たることを忘れてはならないのです。

そして土の器たるわたしたちが覚えるべき、 もうひとつのことがあります。 それは、わたしたちという卑しい土の器の中に、 素晴らしい宝がもられているということです。 それではその宝とはいったいなんでしょうか?

それは他ならぬイエス・キリスト様です。 この宝たるキリストは、確かにわたしたちの内に生きておられます。 そしてわたしたちのような卑しい体の中で輝いてくださり、 計り知れない力をもって働いてくださるのです。

このように、 わたしたちの内にキリストが生きておられることを知ることが出来るとは、 何と素晴らしいことでしょう。

人は宝を得るならば、喜びます。 わたしたちはこの世の朽ちる宝ではなく、永遠の宝たるキリストをいただいているのです。 心から喜び主を讃えつつ、歩んでまいりましょう。

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