2006年01月22日
教会学校焼きそば大会
お昼に、教会学校の焼きそば大会が行われました。
- 参加者数
- (子ども)16人
みんなそれぞれ、野菜を切ったり、材料を焼いたりしておいしく食べることが出来ました。
また、その後には試合形式で、卓球のレクリエーションもしました。

2006年01月22日
お昼に、教会学校の焼きそば大会が行われました。
みんなそれぞれ、野菜を切ったり、材料を焼いたりしておいしく食べることが出来ました。
また、その後には試合形式で、卓球のレクリエーションもしました。
2006年01月22日
10:30より、主日礼拝 が行われました。
聖書: 出エジプト記20章1-11節 (中心聖句は2節) 口語訳
- 1
- 神はこのすべての言葉を語って言われた。
- 2
- 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
- 3
- あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
- 4
- あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
- 5
- それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
- 6
- わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
- 7
- あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
- 8
- 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
- 9
- 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
- 10
- 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
- 11
- 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
※都合により、本日分の主日礼拝メッセージの要約はありません。
2006年01月15日
10:30より、主日礼拝 が行われました。
聖書: 出エジプト記3章13-22節 (中心聖句は18節) 口語訳
- 13
- モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
- 14
- 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
- 15
- 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。
- 16
- あなたは行って、イスラエルの長老たちを集めて言いなさい、『あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主は、わたしに現れて言われました、「わたしはあなたがたを顧み、あなたがたがエジプトでされている事を確かに見た。
- 17
- それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した」と』。
- 18
- 彼らはあなたの声に聞き従うであろう。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行って言いなさい、『ヘブルびとの神、主がわたしたちに現れられました。それで、わたしたちを、三日の道のりほど荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください』と。
- 19
- しかし、エジプトの王は強い手をもって迫らなければ、あなたがたを行かせないのをわたしは知っている。
- 20
- それで、わたしは手を伸べて、エジプトのうちに行おうとする、さまざまの不思議をもってエジプトを打とう。その後に彼はあなたがたを去らせるであろう。
- 21
- わたしはこの民にエジプトびとの好意を得させる。あなたがたは去るときに、むなし手で去ってはならない。
- 22
- 女はみな、その隣の女と、家に宿っている女に、銀の飾り、金の飾り、また衣服を求めなさい。そしてこれらを、あなたがたのむすこ、娘に着けさせなさい。このようにエジプトびとのものを奪い取りなさい」。
イスラエルの民をエジプトから救い出すべき召されたモーセは、パロ王に向って言わなければなりませんでした。
「わたしたちの神、主に犠牲をささげることを許してください。」
この言葉は、単にイスラエルの民を去らせるための方便ではありませんでした。 神さまはイスラエルの民をパロの支配から解放するだけでなく、 荒野で犠牲をささげる礼拝の民として召さたのであります。
このことは、わたしたちが救いということを考える上で忘れてはならない大切なことです。 わたしたちも罪の支配下に置かれていたお互いですが、 今は解放されキリストに属する者となり、礼拝の民となることが出来たのです。
ですから、人が礼拝をささげることは自然なことです。 わたしたちが罪に支配されていた時、わたしたちと神さまとの関係は損なわれ、 わたしたちは礼拝することの喜びを奪われていました。
キリストは、神との平和を失っていたそのわたしたちのために十字架にかかられ、 わたしたちを礼拝の民とするために死んでくださったのです。 この神の愛を知るとき、 わたしたちははばかることなく恵みの座に近づきたいと願わされるのです。
2006年01月08日
10:30より、主日礼拝 が行われました。
聖書: ローマ人への手紙5章17-21節 (中心聖句は20節) 口語訳
- 17
- もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
- 18
- このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
- 19
- すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
- 20
- 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
- 21
- それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。
パウロは「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と言いました。 このみ言葉から示さることは、わたしたち信仰者の生活というのは、 恵みに生かされる生活である、ということです。 恵みに生きる生活、それこそが信仰生活の本質です。
パウロの人間論は、決して安易なものではありませんでした。 せっかく罪から救われても、なお、 生きれば生きるほど罪が増し加わってしまう存在であることを知っていました。 それは救わたわたしたちがなお地上で直面する深刻な問題でした。
しかしながらパウロが見出したのは、その増し加わった罪を超えて、 いや増しに増し加わるところの主の無尽蔵の恵みでした。 それは、わたしたちが歩を進めても、はるかかなたに見える虹のようなものです。 救われているわたしたちはチャンネルが切り替わっているのです。 すなわち恵みのチャンネルです。
礼拝とはこの恵みの中心です。 わたしたちは礼拝を通して主の愛、十字架のあがない、 福音のおとずれを味わいます。 礼拝の中に恵みが満ちています。ですから、わたしたちは安んじて礼拝を通して、 自らを主の恵みにひたして、 罪のゆるしの確信と喜びと感謝をもって地上における信仰を全うさせていただきたいのです。
2006年01月01日
10:30より、元旦礼拝 が行われました。
聖書: マタイによる福音書5章1-16節 (中心聖句は3節) 口語訳
- 1
- イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
- 2
- そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
- 3
- 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
- 4
- 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
- 5
- 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
- 6
- 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
- 7
- あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
- 8
- 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
- 9
- 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
- 10
- 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
- 11
- わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
- 12
- 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
- 13
- あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
- 14
- あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
- 15
- また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
- 16
- そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである」
“こころの貧しい人たち”とは誰でしょう? それは、心へりくだってイエス様を求める者です。 イエス様は彼らを、両手を広げて招いてくださっています。 ゆえにかれらは「さいわい」なのです。
「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」
わたしたちは、悲しみをいっぱい抱えて生きています。 それら悲しみも、イエス様の前に出ることでいやされます。 主はわたしたちの悲しみの涙を、ご自分のみ手をもってぬぐい取ってくださるお方だからです。
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」
わたしたちが自分の義ではなく、神の義を求めるならば、 イエスさまのみもとこそ、わたしたちが行くべき場所です。 そこに十字架のゆるしがあり、神の義があるのです。
イエス様は、わたしたちを礼拝に招いておられるのです。 わたたちも心貧しくして、主のみもとにいこいましょう。