2025/11/16

礼拝メッセージ「心のきよい者の主」マタイの福音書5章8節 大頭眞一牧師 2025/11/09


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第六の祝福、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)です。私たちはここを読んでがっかりすることがあると思います。「心のきよい人は幸いなんだろうな。でも私は不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心の汚れている者には神を見ることなんてできないんだ。何とか少しでも心がきよくなりたいと願って、教会に通い、聖書を読んで、祈っているんだが…」と。もちろん主イエスは、そんな私たちの誤解を根底から覆されます。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【心のきよいとは】

聖書のいう「心のきよい」とは、どういう意味なのでしょうか。このことは「きよめ派」と呼ばれる伝統にある私たちにとって大きな課題であり続けています。「私はきよめられているだろうか。はっきりとしたきよめの体験があるだろうか。そんな体験はない。だから私は、もっと熱心に、もっと聖書を読み、もっと祈らなければならない」そう思って苦しむのです。私もかつてはそんな毎日を過ごしていました。
ところが神学校に入り、ジョン・ウェスレーや彼に影響を与えた古代教会の教父たちの信仰を学ぶうちに目が開かれる気づきが与えられました。それは「心のきよさ」とは自分の努力によって獲得する自分の「持ち物」ではないこと。そうではなくて、神さまが毎瞬毎瞬、注ぎ続けてくださっているいのちを受け取ること。ですから私たちの心が、神さまの注ぐいのちに、いま可能な限り大きく開かれているなら、それが「心のきよい」者であり、その人は神を見ているのです。
ですから、主イエスはひとりの律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と訊ねたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と答えました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」とあります。私たちの全存在で、今できる全力で神を愛する、それでいいのです。神さまは私たちにできないことを要求されません。また「自分自身のように」とも。自分も隣人もたいせつに愛する、それでいいのです。
先週は11月3日には神戸リバイバル聖会に祈りをもって送り出していただきました。その聖会の後、参加された方がたが感想を語ってくださいました。例えば「聖化という言葉は聞いていましたが、自分の生きている毎日の中でとてもきよく生きていないと思い、恥ずかしく、できない自分に悩んでおりました。しかし…目が開かれる思いがしました」「私は私でいいんだとの思いを強く持つことができて感謝です」「クリスチャンホームで育ち、毎週教会に行くことが当たり前で、『〇時○分きよめられる』という証しはたくさん聞いて育ってきたけれど、自分にはそんな体験はなかった…瞬間のきよめではなく、神さまと人との関係性が大事だと聞き『なんだ、それでいいんだ』とほっとした思いだった」。

【神を見るとは】

「神を見る」と聞くと、なにか幻を見るとか、夢に神さまが現れる、といったことを想像しがちでしょう。けれども聖書の「神を見る」は、すべての人に神が与える、確かな恵みです。イエス・キリストの十字架に、私たちの罪と罪にまつわるいっさいが担われていること。そしてイエス・キリストの復活によって私たちに愛のあふれるいのちが注がれていること。このことを知っている者は神を見ている者たちです。
自分の内側をのぞき込んで「私はまだ足りない、まだまだだ」とつぶやく者は、自分を見ています。けれどもイエス・キリストを仰ぐものは神を見ています。十字架に架けられた神を見ているのです。

【ますます心きよく】

今、可能な限りの愛で、神と人とを愛している私たちは「心のきよい者」です。そんなたがいを喜びましょう。自分に愛の足りなさを感じるときも、うずくまってはなりません。神さまは、私たちの愛をますます大きくしてくださいます。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな私たちを通して世界の破れをつくろうために。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/10/20

礼拝メッセージ「あわれみ深い者の主」マタイによる福音書5章7節 大頭眞一牧師 2025/10/12


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第五の祝福、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(7)です。「情けは人のためならず」という言葉があります。人に情けをかけ、親切にすれば、その情けや親切は巡り巡って自分のところに帰ってくる、だから人に親切にすることは、結局は自分のためになる、という意味。もちろん主イエスは、そんな処世訓のようなことを言ったのではありません。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。

【あわれみ深いとは】

「あわれみ深い」という言葉は、有名な「善いサマリア人のたとえ」にも出て来ます。強盗に襲われたユダヤ人の旅人を、同じユダヤ人である祭司もレビ人も助けようとしませんが、ひとりのサマリア人が助けます。このたとえを語ったイエスが、聞いていた律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」と訊ねる。彼は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と答え、イエスはさらに「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)と答えるのです。この箇所で聖書のいう「あわれみ深い」の意味がよくわかります。それは「自分の周りにいる、助けを必要としている人に、具体的なあわれみの行動をすること」です。さらにサマリア人とユダヤ人は敵対していましたから、聖書の「あわれみ深い」は自分に敵対する人びとにも、具体的なあわれみの行動をとるのです。

【あわれみ深くない私たち】

けれども私たちは、自分がそのような「あわれみ深い者」ではないことを知っています。私たちの思いと言葉と行動は、たびたび愛に欠けているからです。「あわれみ深い者は幸いです。」とのイエスの言葉を聴くとき、私たちは「私は幸いではない、あわれみ深くないから」と嘆かざるを得ません。

もちろんイエスは、私たちがあわれみ深くないから、と切り捨てるお方ではありません。罪人のために人となった神、イエス・キリストは十字架の上で私たちにあわれみを与えてくださいました。 もっともあわれみ深いのは主イエス であることを覚えます。私たちはすでに神のあわれみを受けているのです。あわれみ深くないにもかかわらず。だから私たちは幸いなのです。あわれみ深くないのに、幸いなのです。

そして主イエスは私たちがあわれみ深くないままで、放っておくことをなさいません。

「善いサマリア人のたとえ」を聞いた律法の専門家にイエスは「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と招きました。それは今まで以上にがんばりなさいというのではありません。主イエスは愛に満ちた眼差しで、この律法の専門家を見ておられました。そして「あなたは神と共に生きたいと願っているのか。ではわたしがそうさせてあげよう。あなたにはないあわれみを、わたしがあなたの中に造り出してあげよう。わたしの十字架と復活によって」と、そう願ってくださったのでした。私たちにも、主イエスはあわれみを造り出してくださいます。いえ、すでに造り出してくださっています。十字架と復活によって。

【幸いな私たち】

私たちは すでに あわれみ深い者とされています。そして さらに あわれみ深い者とされていきます。その道のりは一生続いていきます。それは主イエスの十字架と復活の恵みが、私たちに沁み込んでいくのには時間が必要だからです。

私たちがあわれみ深くあることを妨げるさまざまな障害があります。祭司やレビ人にとっては、死んでいるかもしれない人に触れると神殿での勤めに差し支えるかもしれない、という恐れがあったのかもしれません。神さまの心である律法の本質がわからなくなっているのです。あるいは、厄介なことと関わり合いになりたくない、という保身があったかもしれません。そんな恐れや保身は、これまでの人生で受けた傷から出ているのかもしれません。私たちもまた、それぞれに、あわれみ深くあることができない痛みを感じています。私たちの弱さによって、傷によって。

けれども主イエスは語りかけます。「あなたは自分があわれみ深くないと嘆く。だからわたしが来たのだ。あなたからあわれみを奪うすべての恐れや歪みを十字架で負うために。そしてわたしの復活によってあなたに愛があふれるいのちを注ぐために。恐れるな。あなたのうちにあるわたしのいのちを解き放て。何度失敗してもあきらめるな。あなたの愛はいやされ、成長しているのだから。」と。

2025/10/11

礼拝メッセージ「義に飢え渇く者の主」マタイによる福音書5章6節 大頭眞一牧師 2025/10/05


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第四の祝福。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(6)です。八つの祝福で繰り返して語られているのは、イエスと共にいることの祝福。今日もこの祝福に心を開きます。

【義に飢え渇く者】

私たちはこの世の人生において、神の正しさ、神の正義はいったいどこにあるのか、という思いにとらわれることがあります。自分のこの苦しみを神は見ておられるのだろうか、と。「義に飢え渇く者」とはそんな私たちです。自分が不当な、身に覚えのない苦しみを味あわされている、と思う。そこに、義に対する深刻な飢え渇きがあるのです。私たちはさまざまな苦しみ、悲しみの中で、常に神の義、神の正しさが貫かれ、実現することを飢え渇くように切実に求めています。社会の不公平、人間関係の軋轢(あつれき)、いじめ、DV、自然災害や、病い、家族の死。なぜこのような苦しみ、悲しみが自分にふりかかって来るのか。この世界に、また、自分に、どうしてこのようなことが起こるのか、と感じるとき、私たちは神の正義、正しさはどこにあるのか、と飢え渇くように問わずにはいられません。私たちが義に飢え渇くのは、自分のためだけではありません。この世界のすべての不正義、不公正、苦しみ、悲しみに対して私たちは義に飢え渇きます。ウクライナで、パレスチナで、傷つけ合う世界のために、アフリカの飢えやあちこちで起こっている自然災害に苦しむ世界のために、私たちは義に飢え渇き、神さまと共に世界の破れを回復するために働くのです。そのような私たちを主イエスは「幸いだ!」と祝福してくださっています。

【主イエスによって】

けれどもここに一つの問題があります。神の正しさ、神の正義がすべてを貫くなら、その正しさは私たちをも貫くことです。世界の破れを嘆く私たちは、その私たちにも破れがあることを、愛に欠けたる思いと言葉と行いがあることを認めざるを得ません。神の正しさに飢え渇く私たちが、神の正義に貫かれてしまう。なんともやりきれない悲しみです。けれども、このことを最も悲しんでおられるのは神さまご自身。私たちを愛するゆえに、私たちを貫かなければならない痛みに耐えることができず、ついに御子イエスを、神であるイエスをこの世界に遣わされました。そして正しいイエスが、正しくない私たちのために、十字架で貫かれてしまいました。神の正しさによって。神であるイエスが。このことはほんとうに痛ましいことです。十字架を思うとき私たちの心は締め付けられます。それはただ、私たちの罪の罰をイエスが引き受けてくださったというだけではありません。私たちの罪の結果や影響も、罪の原因となった私たち自身の弱さや傷も、みな主イエスが引き受けてくださいました。私たちが罪の中で悶々と苦しみ続けるのを見ていることができなくて、そこから解き放ってくださらないではいられなかった主イエスの愛、その愛によって、私たちのうちにいのちが始まりました。

【もはや叫ぶだけでなく】

「神さま、どうしてこんな悲しみが、苦しみが?」と叫ぶ私たち。神さまは「どうして?」と訊かれて、その理由を説明することはなさらないようです。もし説明されたとしても、私たちには理解することも納得することもできないはずです。けれども、神さまは説明よりももっとよいことをなさいます。それは「そうだ、この世界には不条理な破れが満ちている。わたしはそこに正義を実現したい。あなたは、そんなわたしと共に働いてくれるだろうか」と招くこと。神さまが私たちに伝えたいのは「理由」ではなく「心」。世界の破れの中で、嘆き、愛し、ご自分を注ぎだす心です。私たち人間が、神の心がわかるなどというのは不遜に思えます。けれども、神の心は聖書に記されています。特にイエスのことばとわざに。そして聖霊が私たちに神の心を悟らせてくださっています。イエスが私たちを友と呼んでくださったことがその証しです。もうすぐ明野と信愛の召天者記念礼拝、墓前礼拝がもたれます。天授ヶ岡教会はイースターでした。どの教会でも納骨があります。思えば多くの方がたを父の御胸にお返ししました。彼らは世界の破れの中で、神の心を知り、イエスの友として生きました。破れの完全な回復は再臨のとき、世界の終わりに主イエスがもう一度来られるとき。そのときまで、私たちも愛します。自分を注ぎます。それぞれが置かれた場所で。きちんと、ていねいに。

(CSメッセージ「ベテスダの池」)



2025/09/08

礼拝メッセージ「柔和な者の主」マタイの福音書5章5節 大頭眞一牧師 2025/09/07




マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第三の祝福。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。」(5)。

【主イエスが幸い】

第一の祝福「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(3)と「悲しんでいる人たちは、さいわいである」(4)には、共通点がありました。それは、私たちにはとてもさいわいには思えない現実の中に、主イエスがさいわいを造り出してくださる、ということでした。つまり、主イエスご自身が私たちのさいわいなのです。今日もまた主イエスが私たちのさいわいであることを聴き取りたいと思います。

【柔和な人たち】

「柔和」という言葉を聞くと、弱弱しく軟弱なことをイメージするかもしれませんが、それはまちがいです。「柔和」と日本語に訳されている聖書の言葉は「中庸」という意味。怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らない「中庸」という強さを持っているのが柔和なのです。

ところが私たちは、いつも怒りをコントロールすることができるかというと、そうではありません。ときに限度を超えて怒ってしまい、また、ときに怒るべき時でないときに怒ってしまうことがあります。そんなとき、私たちは、自分は柔和でない、だめだ、と落ち込んでしまうことがよくあります。

【自分が正しくても】

今日のマタイ5章5節は、主イエスが詩篇を引用された箇所。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37篇11節)そこに描かれているのは、神の民でありながら、神に従わない者たちによって苦しみを味わわされている人たちのことです。ですから詩篇、そして主イエスは、自分が正しくても、怒るべき時にも限度を超えることがなく、怒るべきでない時には怒らないさいわいを語っているのです。自分が正しくても柔和!これはますます難しいことに思えます。

【柔和な主イエス】

私たちはどうすれば、柔和であることができるでしょうか。反省してもまた怒ってしまう私たち。気をつけようと思っていても、怒るとそれを忘れてしまう私たち。けれども主語は神さま。自分から目を離してイエスを見るのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)とあります。柔和なお方は主イエス。そして主イエスの柔和は十字架にいたるまで変わりませんでした。「『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と。柔和な主が私たちの重荷を下ろしてくださった。いやしてくださっている。十字架まで柔和な主が。

【怒った後で】

しばらく前ですが、私はひさしぶりに怒ってしまいました。限度を超えて。その後、牧師なのにと、とても情けなくなりました。そんなとき「柔和な人たちはさいわい」と今日の箇所を思いました。主イエスは私を責めておられるのだろうか、とふと思ったのです。人はなぜ怒るのか。自分の正しさや思いが受け入れてもらえない、そんなとき私たちは「どうしてわかってくれないんだ」と悲しみ、怒ります。でも私は、主イエスがそんな悲しみもすべてご存じで受け入れてくださっていることを思い出しました。そして怒りの相手もまた主イエスに受け入れられていることも。振り返ってみれば、ずいぶん怒ることが少なくなってきたな、とも思うのです。主イエスによっていやされているのだと感じました。

【地を受けつぐ者】

柔和な人たちのさいわいは「地を受けつぐ」こと。これは大きな土地を相続することではありません。この「地」は世界。世界には多くの破れがあり、怒りが満ちている。けれども、主イエスの胸で癒されつつある私たちは、世界の破れを回復するために働くことができます。たがいに受け入れ合い、いやされることを経験することを通じて。それがほんとうのさいわい。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/24

礼拝メッセージ「悲しむ者の主」マタイの福音書5章4節 大頭眞一牧師 2025/08/24



マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第二の祝福。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(4)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「悲しむ者」を「罪を悲しむ人」だと理解するもの。悲しむ人が幸いだなんて、確かに奇妙なことです。だから「悲しむ」を「罪を悲しんで、悔い改める」と読み替えようとするわけです。そうすると、「罪を悲しんで悔い改めれば赦されるから、その人は幸いだ」と一応の筋道が通ります。けれども問題は、「あなたがたは幸いだ!」という主イエスの祝福の宣言が「罪を悔い改めれば、祝福される」という条件つきに変わってしまっていることです。先週も語ったように、イエスはそのままの私たちを「幸いだ!」と祝福してくださっているのです。「悲しんでいるあなたがたは幸いだ!」と宣言してくださっているのです。

【悲しむ私たち】

私たちはそれぞれ、いろいろな悲しみを抱えています。愛する家族を失った悲しみがあり、自分や家族の病や、老いによる衰えの悲しみ、心の病や不安、孤独による悲しみもあります。物価上昇などによる経済的な困窮という悲しみ、自分の願う道が開かれない悲しみ、家族や隣人、職場や学校での人間関係がうまくいかないという悲しみもあります。私たちはときに、強い信仰をもてば、そんな悲しみなどないかのように進んでいけると勘違いすることがあります。けれども主イエスはそんなことはおっしゃっていません。人となられた神であるイエスは、まことの人として生き抜かれました。いわば、ハンディキャップなしに私たちと同じ悲しみを味わったのです。だからイエスは私たちを𠮟咤激励しているのではありません。私たちの悲しみをそのままの大きさで受けとめた上で、「その人たちは慰められる」と言うのです。

【慰めるイエス】

主語は神さまといつも申し上げています。「その人たちは慰められる」の主語も神さまです。神であるイエスが「わたしがあなたがたを慰める」と言うのです。主イエスは悲しみの原因をただちに取り除くと言っているのではありません。悲しみの原因がいつも取り除かれるのではないことは、家族を失った人たちは身に染みて知っています。けれども、主イエスはその悲しみの中に共にいてくださいます。そして私たちと共に嘆き、私たちと共に悲しんでくださっているのです。イエスは慰める方、けれども実はイエスご自身が慰めです。イエスは私たちにご自分という慰めを与えてくださっているのです。

【イエスの胸の中で】

「慰める」という言葉のもともとの意味は「かたわらに呼ぶ」です。イエスが私たちをかたわらに呼んでくださるのです。「慰める」という言葉はまた「励ます」や「勧める」とも訳される言葉。つまり、イエスは私たちを慰めてくださる、私たちをかたわらに呼び、主イエスと共に歩くことを励まし、勧めてくださっています。

そう言われても、と私たちは思います。かたわらに呼ばれる、「さあ、わたしのそばに来なさい」と言われても、そんな気力さえ起らない私たちです。むしろ、こんな悲しみを与えた神さま、あるいは、こんな悲しみが起こることをゆるす神さまへの怒りや失望を感じる私たちは、呼ばれてもイエスのかたわらに行くことができません。

それでも、だいじょうぶです。主語は神、そして動機は愛。動けないでいる私たちのかたわらに主イエスが来てくださっています。愛ゆえに私たちを放っておくことができないからです。悲しむ私たちは、結局のところ、イエスの胸の中で悲しんでいるのです。イエスの胸のなかで、イエスと共に。だから私たちはすでに主イエスの慰めのなかにいます。神さまがぎゅつ!

【そしてイエスは】

そして主イエスはその悲しみのなかに意味を造り出すことがおできになります。自分がイエスの胸の中で悲しんでいることに気づいた人は、他の人にもその慰めを伝えることができます。「あなたは幸いなのだ、あなたはイエスの胸の中にいるのだから」と。そして「私たちはイエスの胸の中で、慰め合おう。イエスと共にあることを励まし合い、勧め合おう」と。こうして世界の破れの回復が始まっていきます。それは幸いなことです。心の痛む悲しみの中にあって、とても幸いなことなのです。



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2025/08/13

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2025/08/10


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」は祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。けれどもそこにイエスの御声が響きます。

イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


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2025/08/07

礼拝メッセージ「山上の主」マタイの福音書5章1-2節 大頭眞一牧師 2025/08/03


今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。

【山上で】

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。

【律法を成就するイエス】

シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。

イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。

旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。

【新しい契約】

けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。

【聖化の再発見】

けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)