2025/08/13

礼拝メッセージ「心の貧しい者の主」マタイの福音書5章3節 大頭眞一牧師 2025/08/10


マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を今日から順に聴きます。今日は第一の祝福。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(3)です。

【よくある誤解】

よくある誤解は「心の貧しい者」を「謙遜な、へりくだった人」だと理解するもの。そうなると「謙遜でへりくだったものでありなさい。そうすれば幸いになることができる」という意味になってしまいます。そこでは、イエスは単なる道徳を教えた道徳の先生になってしまいます。そもそも「何かをしたら、幸せになる」は祝福ではないのです。

【もうひとつの誤解】

もうひとつの誤解は、「天の御国」を、死んでから行く天国のことだと思ってしまうこと。でもマタイが「天の御国」というとき、それは「天国」のことではありません。ほかの福音書が「神の国」と呼んでいる「神の支配」のこと。もちろん神はいつでも世界を支配しています。けれども、神であるイエスが人となってこの世界に来たことによって、「神の支配」は決定的な段階に入りました。罪と死の支配のもとにいた者たちが、イエスの招きによって神の支配のもとに移ったのです。山上の説教を聴いているのは、イエスに従った弟子たちと、これもイエスに従った群衆です。イエスはそんな人びとを祝福して言います。「あなたがたは幸いだ、神の支配に移ったから!」と。

【幸いだ!心の貧しい者!】

「心の貧しい者は幸いです。」は、もっと原語に忠実に訳すと「幸いだ!心の貧しい者!」となります。私たちは心の貧しい者。貧しい者とは、何も持っていない者。人より少なくしか持っていない者ではなく、何も持っていない者。つまり、自分の心の中に何も持っていない者、自分を支える依りどころを何一つ持っていない者です。心が豊かでも広くもない、愛に富んでもいない、人を受け入れる度量もない、相手の状況や思いを理解して対話を続ける余裕もない。すぐにイライラとしカッとなってしまい、人を責めることに熱心になってしまう。それが私たちです。そして、そんな心の貧しさが、世界の破れを広げてしまいます。心の貧しい者が幸いだなんて、どうして言うことができるのか、と思うのも無理はありません。けれどもそこにイエスの御声が響きます。

イエスの福音が聴こえます。「幸いだ!心の貧しい者!」と。なぜならイエスに従った私たちの心の貧しさすべてをイエスが引き受けてくださったからです。私たちは何も持っていないのですが、イエスはすべてをお持ちのお方。主イエスの「わたしに従いなさい」とは、「来なさい、わたしの後ろに」と言う意味だ、と、少し前にお語りしました。イエスは「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」とおっしゃいます。イエスが負ってくださるのは「私たちの心の貧しさ」そのものです。「何もなくていい、生きるための依りどころがなにもなくてもかまわない。わたしが持ってるから、わたしが与えるから。」と主イエスは招きます。この招きに「そうですか。それではあなたからいただきます。あなたの招きに応じます。」と私たちは申し上げました。何も持たないまま神の支配のもとに入ったのです。そのことを主イエスは祝福しておられます。喜んでくださっているのです。私たちも喜びます。主イエスに祝福されている自分を喜び、主イエスに祝福されている仲間を喜びます。喜びのうちに、私たちは気づきます。いつか相手を受け入れ、愛し、理解することに成長している自分たちに。

【思い起こせ、主イエスを】

私も自分は心の貧しい者だと思うときがあります。「愛せなかった。受け入れることができなかった。」と泣きたくなることがあります。そんな時には自分を責めたくなります。クリスチャンなのに、牧師なのに、と。けれどもそんな私に主イエスはおっしゃいます。「幸いだ!心の貧しいあなた!」と。自分を責める思いに支配されているときに、主イエスがすべてを負って祝福してくださっていることを受け入れるのは、まるで重力に逆らっているような感じがします。でも私たちは知っています。最初にお出会いした時から、こうして重力に逆らうような信仰を主イエスが何度でも何度でも与えてくださってきたことを。そしてさらに何度でも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/08/07

礼拝メッセージ「山上の主」マタイの福音書5章1-2節 大頭眞一牧師 2025/08/03


今日からマタイ5章。5章から7章は「山上の説教」と呼ばれるたいせつな個所です。かつては「山上の垂訓」と言われていましたが、守るべき規則を教えているわけではないことから「説教」と称されるようになりました。

【山上で】

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。」(1a)とあります。ルカでは、イエスは山から下りた平らなところで語った、とあります。平地の説教と称されます。イエスは同じような説教を何度も語られたのでしょうが、マタイが、山上での説教を取り上げているのには、理由があります。かつて出エジプトの後、モーセはシナイ山上で十戒を中心とする律法を与えられました。マタイはこのことを思い起こさせるために山上での説教を記したのでした。

【律法を成就するイエス】

シナイ山上での律法は「守れば救われ、破れば罰せられるルールのようなものではない」といつもお話ししています。まず出エジプト、それからシナイ山という順番がたいせつ、とも。つまり神さまは、なにもわからないイスラエルをただあわれんで救い出し、それから「神とともに歩く歩き方の教え」である律法を与えたのでした。それは世界の破れの回復のために神とともに働く生き方です。

イエスもまたご自分に従ってきた弟子たちに、そしてこれもご自分に従ってきた群衆に山上で語りました。御国の福音を聞いて、イエスについて来た人びとに、「ご自分とともに歩く歩き方」を教えたのです。ご自分とともに世界の破れの回復のために働く生き方を。

旧約聖書と新約聖書の間に断絶はありません。破れてしまったこの世界を回復するために、神さまはアブラハムとその子孫であるイスラエルをパートナーとして選びました。そしてついに、イスラエルからイエスが生まれました。神が人となってこの世界に来てくださったのです。神とともに歩く歩き方を成就するために。世界の破れの回復のために。

【新しい契約】

けれども旧約聖書と新約聖書の間にはちがいがあります。エレミヤ書にこうあります。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)これは主イエスの預言。主イエスは神と共に歩く歩き方を私たちの心としてくださいました。私たちが聖霊によって。神の心を生きるようにしてくださったのです。それは旧約聖書の律法を廃するためではありません。そうではなくて律法を成就するため。いま、私たちに律法は成就しているのです。

【聖化の再発見】

けれども私たちは尻込みしてしまいます。「私のうちに律法が成就している、神の心が成就しているなんて、とんでもない。私はしばしば、愛に欠けた思いと言葉と行いから逃れられないのだから」と。確かにその通りです。私たちは思いと言葉と行いにおいて、聖くないことを認めざるを得ません。でも、神さまは私たちに不可能な要求をなさるお方ではありません。イエスは律法の中心を二つ語られました。イエスは彼に言われた。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)と「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ22:39)です。つまり、自分の全存在で神と人を愛すること、今日よりも明日、さらに愛に向かう精一杯の姿勢だけを望んでおられるのです。ですから、私たちは愛に欠けあるものでありながら、愛の姿勢においては聖いのです。ましてや聖化の際立った体験の有無は問題ではありません。神さまが私たちをご自分の民とし、私たちは神の民とされています。心に律法、つまり神の心を書き記されて。だから、私たちはこの大きな喜びを今日も生きるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/07/26

礼拝メッセージ「漁師にする主」マタイの福音書4章18-25節 大頭眞一牧師 2025/07/20


マタイの説教では毎週だいたい「〇〇の主」という題にしています。イエスご自身がどんなお方であるかを際立たせるため。月刊予定表では「漁師にする主」としたのですが、ほんとうは「従わせる主」がよかったかな、とも思います。今日の聖書箇所を貫いているのは「イエスに従った」だからです。20節でペテロとアンデレが、22節でヤコブとヨハネが、25節で大勢の群衆が「イエスに従った」のでした。

【なぜ?】

これらの人びとはなぜ、イエスに従ったのでしょうか。一見すると、群衆が従った理由はわかりやすく思えます。「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」(24)とあるからです。イエスが人びとを癒したので、人びとはイエスに従ったのだろう、そんな気がするのです。

けれども、弟子たちの場合は、なにかよいことがあったからイエスに従ったわけではありません。ただイエスに招かれ、それだけで従ったように見えるのです。実はルカの福音書には、ペテロたちが従ったいきさつを異なる描き方をしています。イエスが網が破れそうな大漁の奇蹟を行っているのです。

ルカとちがって、マタイが大漁の奇蹟を記さないのには理由があります。それは弟子たちが奇蹟を見たからではなく、福音を聞いたから従ったことを明らかにするため。今日の箇所の直前の17節。「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」とあります。イエスが、神の国(天の御国)の到来を告げ、主イエスに向き合うように(悔い改め)招いたから、弟子たちは従ったのでした。

実は群衆も同じでした。確かに主イエスは癒しの奇蹟を行ないました。けれども「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(23)とあります。まず「御国の福音」が宣言されているのです。だから群衆は従ったのでした。私たちの中にも、病やいろいろな困難がきっかけで教会に足を踏み入れた人も多くいるでしょう。でも、みんな福音を聞き、新しいいのちを受け取り、主イエスに従いました。もともとの病や困難が解決した場合もあり、そうでない場合もあるでしょう。けれども、主イエスが福音によって私たちの歩みを変えてくださいました。ご自分に従う者としたのです。ここでも主語はイエス、その動機は愛です。

【来なさい、わたしの後ろに】

「わたしについて来なさい」(19)は、もっと原語のニュアンスを出せば「来なさい、わたしの後ろに」となります。長距離走や自転車レースなどでは、先頭を走る人が風除けになります。先頭はもっともたいへん。私たちはイエスについて行くことは、たいへんだと身構えるのですが、逆です。私たちの先を行くのは十字架と復活のイエス。私たちのために何も惜しまないお方が私たちの風除けとなってくださいます。この破れてしまった世界で、暴風雨の中を、イエスなしに自分の力で歩こうとして疲れ切ってしまった私たちであったことを思います。そんな私たちをイエスは招きます。「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」と。

【すぐに捨てて】

「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」(20)とあります。「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。」(22)とも。ここを読むと、私たちは「自分はすべてをすぐに捨てているだろうか」と不安になったりします。けれども心配はいりません。イエスは、私たちみんなが仕事をやめて牧師になったり、財産のすべてを献金したりすることを願っておられるのではありません。

主イエスが願っているのは、私たちが主イエスの後を、主イエスの足跡を踏みながら一歩一歩ついて行くこと。そうするうちに、何かを手放さなければこれ以上ついて行くことができない、そういうときがきたら、それを手放せばよいのです。私たちが持っているものはすべてよいものです。神さまがくださったよいもの。それを軽くにぎって、主イエスについていくのです。そうするときに、私たちのまわりの人びとも主イエスを知ることになるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/07/08

礼拝メッセージ「光である主」マタイの福音書4章12-17節 大頭眞一牧師 2025/07/06


今日の箇所で、主イエスは人びとに語り始め宣教を開始しました。ここから心を開いて神の愛を聴きましょう。

【ヨハネが捕らえられたと聞いて】

ベツレヘムで生まれたイエスはナザレで育ちました。そして、30歳のころ、公の生涯の始まりに、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けました。ところが「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」(12)とあります。ヨハネはヘロデ・アンテパス(かつて赤ん坊のイエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子)が、兄弟の妻を奪って結婚したことを批判したために捕らえられました.ところがヘロデ・アンテパスは、当時ガリラヤの領主。私たちは、「イエスが退かれた」と聞くと、イエスが安全のために身を隠した、と思いがちです。ところがイエスはヨハネを捕らえたヘロデのお膝もとに行ったわけですから、かえって危険に身をさらしているのです。そしてそのガリラヤで宣教を開始されたのでした。

この「退かれた」は、主イエスが父なる神と向き合うために一人になったことを意味します。ヨハネの苦難に、ご自分の将来を重ね合わせて、これからのことを深く見つめられた。ご自分もまた、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、ローマに引き渡され、蔑みと罵りの中で十字架に架けられることに思いをめぐらされたのでした。

【人となられた神の苦しみ】

十字架を前にゲッセマネの園で、イエスは「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。その後に「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と続くのですが、この二つの祈りは、すんなりとつながったのではなかったでしょう。苦しみの中で主イエスはご自分を差し出します。そして、苦しみの中で、父はイエスを受け取られたのでした。神が人となることのゆえに、そうでなければ味わうことがない苦しみを通りました。私たちに福音を与えるために。

【天の御国が近づいた】

福音とは何か。「天の御国が近づいた。」(17b)です。「天の御国」は、「神の国」つまり神の支配。世界はもともと神の支配のもとにあります。けれども、神の支配が、いま、新たな勢いをもって、この世界を覆います、イエスによって。イエスの十字架を通して。神の苦しみを通して。

「悔い改めなさい。」(17a)は、「自分の罪を認めて反省し、もう二度と繰り返さないように努めること」と考えられることが多いです。しかし聖書の悔い改めは、今まで背を向けていた神に正対し、心を開いて、その愛を受け入れること。「いま始まった新しい神の愛の迫りに、心を開け」と主イエスは招かれたのでした。私たちもその招きに応えたひとりひとりです。

【闇の中に大きな光が】

マタイはここでイザヤ書8章から9章を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(15-16)と。マタイは異邦人だけが闇の中に住んでいたと言っているのではありません。「闇の中に住んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たち」とは自分たちのことだと言うのです。それは私たちのことでもあります。罪ゆえの闇の中で、手探りで進み、しばしばぶつかり合い、たがいに傷つけたり、傷つけられたりしながら生きる私たち。どうしてこんなに苦しいんだろう、とうめくのだけれども、出口の見えない闇の中で、のたうつしかなかった私たち。けれども、そこに大きな光が!イエスの光が!そして私たちも、小さな光として、世界を照らすものとされたのでした。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/06/30

京都教区合同礼拝メッセージ「逃れの町」民数記35章22-29節 大頭眞一牧師 2025/06/29


【のがれの町】

今から3000年以上前、そのころのイスラエルには不思議な町がありました。「のがれの町」です。そのころ、イスラエルでは人を殺した者は、被害者の家族によって殺されました。復讐が認められていたのです。けれども、わざとではなく、うっかりと人を殺してしまうこともあり得ます。例えば、下をよく見ないでうっかりと石を落としてしまい、その石がたまたま通りかかった人に当たってしまった場合などです。神さまがこのような場合のために定めてくださったのが「のがれの町」です。「のがれの町」はイスラエルに全部で6つありました。6つの町は、だいたい等間隔で配置されていました。30kmほどごとに。ですからイスラエルのどこにいても、まる一日、いのちがけで走れば、逃げ込むことができました。

神さまはわざとではなく、うっかり人を殺してしまった人の命が絶たれるのを惜しまれました。そしてそのことによって憎しみの連鎖が世界を覆っていくのをとどめたいと願われたのでした。

想像してみてください。あなたの後ろから、あなたが殺してしまった人の家族が大勢追いかけてきます。歯をむき出し、大きな声で叫びながら、その手には、棒や刃物が握られています。あなたは走って、走って、走ります。つまずいても起き上がり、傷だらけになり、息を切らして。でも、もうだめか、と思うその時に、遠くに「のがれの町」が見えてきます。あなたはなおも走ります。町の門にだれかが立っています。町を守るレビ人です。両手を広げてあなたを招いています。あなたはもうろうとしながらも走り続け、ついに、レビ人の胸の中に倒れ込みます。レビ人に抱きしめられたあなたの後ろで門が閉まります。あなたは救われたのです。

神さまはのがれの神。私たちが、トラブルに巻き込まれるときも、神さまが私ののがれの場所となってくださいます。ときには、人から言われのない非難を受けることもあるでしょう。よくあることです。けれども、すべての事情も状況もご存じの神さまが、私たちののがれとなってくださいます。恐れてはなりません。自分を守ろうとあわてて、まるで神さまがいないかのように、ののしり返したり、傷つけ返したりする必要はない。落ち着いて、神さまがすべてを明らかにしてくださるのを待てばよいのです。

【のがれの神】

この個所を読むときに私には一つのイメージが浮かびます。両手を広げたレビ人の姿が、両手を広げて十字架に架けられたイエス・キリストです。古代のイスラエルではのがれの町に逃げ込むことができたのは、過失による殺人者だけでした。けれども、キリストの十字架の死は、故意による殺人者をも赦します。だれかに対する憎しみにかられた人が、そのだれかを、この世界から消し去ろうと決意して、殺人を実行したとしても、キリストの十字架は、その罪に赦しを与えるというのです。それだけではありません。私たち自身も、殺人者。私たちはときに、思いやことばによって殺人を犯します。「あの人などいないほうがいいのに」と思うなら。それは、思いにおける殺人。神さまが造ってくださった私たちのたいせつな仲間がいなくなってしまえば、と思ってしまうのは罪です。決して小さいとは言えない罪なのです。けれども、神さまは、そんな私たちを愛する神さまです。私たちを惜しんでくださって、罪びとの私たちがほろびることに耐えられなくて、ご自分の御子を十字架にかけてしまわれた神さま。そんなにも愛の神さまなのです。イエス・キリスト、あなたのための「のがれの町」に走り込んでください。神さまの胸の中に。

【大祭司の死】

のがれの町にかくまわれた殺人者は、そこから出ることができません。けれども「その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる」(35:28)とあります。これは、不思議な、なんとも説明のつかないことです。まるで、大祭司が、殺人者の罪を引き受けて、身代わりに死んだかのように、殺人者は赦されるのです。もし、だれかが、殺人者を罰しようと思っても、殺人者は守られ、殺人者を傷つける人は、かえって罰せられるのです。

キリスト教会は、この不思議を、イエス・キリストこそがまことの大祭司なのだと、理解してきました。ほろびなければならない私たち。けれども、キリストは、あののがれ町の門のレビ人のように、手をあげて「待て」とおっしゃいます。「のがれの神に逃げ込んだこの人を滅ぼしてはならない」とおっしゃるのです。「ここから、先へは、行かせない。なにがなんでも、行かせない。この罪びとには手出しはさせない。どうしてもほろぼすと言うのなら、わたしをほろぼすがよい」と言って、死んでくださった。十字架で滅びてくださった。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫んで滅びてくださったのです。だから、私たちは生きることができます。喜びをもって。注がれた愛を注ぎ出しながら。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/06/16

主日礼拝メッセージ「主を試みるな」マタイの福音書4章1-11節② 大頭眞一牧師 2025/06/15


今週も「荒野の誘惑」の箇所。先週は第一のパンの試みから聴きました。今日は第二と第三の試みから。

【下に身を投げなさい】

第二の試みは神殿の屋根の上。ただの高いところというわけではありません。神殿には多くの人びとが集まっています。悪魔は「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6)と言います。「この多くの人たちに、天使たちに支えられて地上に降り立つ姿を見せてやれ。そうすればだれもが、あなた(イエス)を救い主だと認めるだろう」と誘惑したのです。

主イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』
とも書いてある。」(7)と答えました。イエスが引用したのは申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」です。荒野を旅するイスラエルがマサという場所で、飲み水がなくなった、と、モーセと神に向かってつぶやきます。単に水を与えよ、と言っただけではありません。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(出エジプト17:3)と、モーセを、つまりモーセを遣わした神をののしるのです。神の愛などわからないふりをするのです。このことは神とモーセにとって、これ以上ない痛みでした。神の愛を世界に伝えるイスラエルの使命は崩壊しようとしていました。このとき神はモーセに命じて、岩から水を出します。愛ゆえに。対照的に、愛なきイスラエルは、愛なき救いを求めました。水さえあれば良いと思い、水がなければ神には愛がない、と疑い、断じたのです。

悪魔の第二の試みは、まさに愛なき救いへの誘惑でした。天使に支えられたイエスの着地を見て、人びとは熱狂するでしょう。自分の望みもかなえてくれるにちがいない、と。けれども、それは愛なき救いです。神の心で、神と共に世界の破れに身を置いて、世界を回復するために働く救いではないのです。そもそも愛なき救いなどあり得ません。

私たちにも愛なき救いへの誘惑はやってきます。神を愛する神の子である私たちです。けれども大きな危機、大病や災害、経済的な欠乏、精神的なスランプなどで、愛を忘れることがあるでしょう。こんなことが起こるなんて、自分は神に愛されていない、と。けれども神は愛です。そんな私たちをも抱きしめて、凍りついた愛をとかすのです。そして私たちの問題に解決を与えます。ただ解決するだけではなく、私たちの愛を成長させ、世界を回復しながら。

【ひれ伏して私を拝むなら】

第三の試みは非常に高い山で、この世のすべての王国とその栄華を見せることでした。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(9)と悪魔は誘います。

けれども、ここには根本的な偽りがあります。悪魔は世界が自分のものだと言っているからです。世界は神のものです。神が愛をもって造り、愛をもって運営し、愛をもって贖っておられる神のもの。ところが悪魔は、自分は世界を思うようにできる、だから自分の支配の下に入れ、と言うのです。

イエスの答は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10)。申命記6章13節の引用です。ここは「あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:11-12)に続く箇所。すべての良きものは神から与えられました。私たちが神の愛を知り、世界の破れの回復を願う神の心を知り、神と共に働くために。

【十字架の主】

第二の試みで、イエスはマサの欠乏を引いて、愛なき救いを拒みました。第三の試みでのイエスは、出エジプトの恵みを引いて、神との愛の歩みを励ましました。愛に生きるその果てには十字架が待ち受けていることを知りつつ。十字架によって私たちの愛の歩みを造ることを喜びつつ。そのことを知る私たちは幸いです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/06/09

ペンテコステ礼拝メッセージ「荒野の主」マタイの福音書4章1-11節① 大頭眞一牧師 2025/06/08


今週と来週は「荒野の誘惑」の箇所。豊かな恵みの箇所ですので、二回にわたって聴くことにします。

【悪魔=試みる者】

今、イエスがもたらす神の国。けれども世界には神の国を阻もうとする力が存在します。私たちを誘惑し、神から視線をそらさせ、神と共に生きさせまいとする力です。主イエスはそのお働きの始めに、この力と対決されました。第一の試みは「パン」。「四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた」(2)イエスに、悪魔はささやきます。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(3)と。

【神の子なら】

この試みの本質は、「神の子なら」にあります。先週は、父の「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)というみ声を聴いたイエスです。そのイエスに「では、あなたがほんとうに神の子であることを確認したらいい。そしたら世界の破れを回復する働きを、堂々と始めることができるぞ」と誘う試みだったのです。

けれどもこの誘いは、決して応じてはならないものでした。なぜなら主イエスの使命は十字架によって世界を贖うこと。神としての力によって、力づくで世界の破れをつくろうことではなく、破れに身を投じて、わが身をもって破れをつくろうこと。悪魔は十字架からイエスを逸らせようとしました。そうして世界の救いを覆そうとしたのでした。

【神の口から出ることばによって】

イエスの答は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)でした。申命記8章3節の引用です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)。申命記のこの箇所は、エジプトを出たイスラエルの民の四十年間の荒野の旅をふりかえっています。荒野のイスラエルは、実際には飢えることがありませんでした。マナが降ったからです。ですからこの箇所は「神はあなたがたをマナで養ってくださった。あなたがたが自ら労して食物を得るのではなく。それは、食物もみな神の恵みであることを分からせるため。そして食物よりも大きな恵みを分からせるため。神のあわれみを知り、神の心を知って、世界の回復のために神と共に生きる恵みを。」との意味。

私たちは「人はパンだけで生きるにあらず」などと言います。それを「物質だけに目を奪われてはいけないよ」という意味で使います。しかし真意はちがいます。「パンを与えてくださる神は、さらに大きな恵みを差し出してくださっている。それは神の心を知り、神と共に生き、神と共に世界の回復のために働くこと」なのです。

【神の子だから】

主イエスは、悪魔の誘いを拒絶しました。「神の子なら」と挑発されても「神の子だから」父の心を知り、父の心を生きました。主イエスの十字架によって神の子とされた私たちも、「神の子だから」父の心を生きます。

もちろん悪魔は私たちに、石をパンにしてみよ、とは言いません。けれども悪魔は私たちの目の前の石を用いて、私たちを神から引き離そうとします。その石とは、病気や貧困、地位や生きがいが得られないことなど。悪魔はそこに付け込んで、「お前が神の子なら、神がそんな石をパンに変えてくださるはずだ。お前の不足を神が満たしてくださるはずだ」と煽ります。

けれども私たちはもう知っています。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)と。私たちには確かに不足があるかもしれません。けれども神は、私たちに必要をご存じです。日々満たしてくださいます。たとえ、そうでないように見えるときも。そしてなにより、神は私たちにご自身の心を分からせてくださった。私たちは、神の子だから。だから私たちは、不足の中でも、神がこの世界の回復を進めておられることを知っています。私たちがその回復のために共に働いていることも。世界の破れのただ中で、神はよきことを造り出すことがおできになるし、今も造り出してくださっているのです。私たち抜きではなく、私たちを通して。私たちと共に。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)