2025/06/30

京都教区合同礼拝メッセージ「逃れの町」民数記35章22-29節 大頭眞一牧師 2025/06/29


【のがれの町】

今から3000年以上前、そのころのイスラエルには不思議な町がありました。「のがれの町」です。そのころ、イスラエルでは人を殺した者は、被害者の家族によって殺されました。復讐が認められていたのです。けれども、わざとではなく、うっかりと人を殺してしまうこともあり得ます。例えば、下をよく見ないでうっかりと石を落としてしまい、その石がたまたま通りかかった人に当たってしまった場合などです。神さまがこのような場合のために定めてくださったのが「のがれの町」です。「のがれの町」はイスラエルに全部で6つありました。6つの町は、だいたい等間隔で配置されていました。30kmほどごとに。ですからイスラエルのどこにいても、まる一日、いのちがけで走れば、逃げ込むことができました。

神さまはわざとではなく、うっかり人を殺してしまった人の命が絶たれるのを惜しまれました。そしてそのことによって憎しみの連鎖が世界を覆っていくのをとどめたいと願われたのでした。

想像してみてください。あなたの後ろから、あなたが殺してしまった人の家族が大勢追いかけてきます。歯をむき出し、大きな声で叫びながら、その手には、棒や刃物が握られています。あなたは走って、走って、走ります。つまずいても起き上がり、傷だらけになり、息を切らして。でも、もうだめか、と思うその時に、遠くに「のがれの町」が見えてきます。あなたはなおも走ります。町の門にだれかが立っています。町を守るレビ人です。両手を広げてあなたを招いています。あなたはもうろうとしながらも走り続け、ついに、レビ人の胸の中に倒れ込みます。レビ人に抱きしめられたあなたの後ろで門が閉まります。あなたは救われたのです。

神さまはのがれの神。私たちが、トラブルに巻き込まれるときも、神さまが私ののがれの場所となってくださいます。ときには、人から言われのない非難を受けることもあるでしょう。よくあることです。けれども、すべての事情も状況もご存じの神さまが、私たちののがれとなってくださいます。恐れてはなりません。自分を守ろうとあわてて、まるで神さまがいないかのように、ののしり返したり、傷つけ返したりする必要はない。落ち着いて、神さまがすべてを明らかにしてくださるのを待てばよいのです。

【のがれの神】

この個所を読むときに私には一つのイメージが浮かびます。両手を広げたレビ人の姿が、両手を広げて十字架に架けられたイエス・キリストです。古代のイスラエルではのがれの町に逃げ込むことができたのは、過失による殺人者だけでした。けれども、キリストの十字架の死は、故意による殺人者をも赦します。だれかに対する憎しみにかられた人が、そのだれかを、この世界から消し去ろうと決意して、殺人を実行したとしても、キリストの十字架は、その罪に赦しを与えるというのです。それだけではありません。私たち自身も、殺人者。私たちはときに、思いやことばによって殺人を犯します。「あの人などいないほうがいいのに」と思うなら。それは、思いにおける殺人。神さまが造ってくださった私たちのたいせつな仲間がいなくなってしまえば、と思ってしまうのは罪です。決して小さいとは言えない罪なのです。けれども、神さまは、そんな私たちを愛する神さまです。私たちを惜しんでくださって、罪びとの私たちがほろびることに耐えられなくて、ご自分の御子を十字架にかけてしまわれた神さま。そんなにも愛の神さまなのです。イエス・キリスト、あなたのための「のがれの町」に走り込んでください。神さまの胸の中に。

【大祭司の死】

のがれの町にかくまわれた殺人者は、そこから出ることができません。けれども「その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる」(35:28)とあります。これは、不思議な、なんとも説明のつかないことです。まるで、大祭司が、殺人者の罪を引き受けて、身代わりに死んだかのように、殺人者は赦されるのです。もし、だれかが、殺人者を罰しようと思っても、殺人者は守られ、殺人者を傷つける人は、かえって罰せられるのです。

キリスト教会は、この不思議を、イエス・キリストこそがまことの大祭司なのだと、理解してきました。ほろびなければならない私たち。けれども、キリストは、あののがれ町の門のレビ人のように、手をあげて「待て」とおっしゃいます。「のがれの神に逃げ込んだこの人を滅ぼしてはならない」とおっしゃるのです。「ここから、先へは、行かせない。なにがなんでも、行かせない。この罪びとには手出しはさせない。どうしてもほろぼすと言うのなら、わたしをほろぼすがよい」と言って、死んでくださった。十字架で滅びてくださった。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫んで滅びてくださったのです。だから、私たちは生きることができます。喜びをもって。注がれた愛を注ぎ出しながら。


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2025/06/16

主日礼拝メッセージ「主を試みるな」マタイの福音書4章1-11節② 大頭眞一牧師 2025/06/15


今週も「荒野の誘惑」の箇所。先週は第一のパンの試みから聴きました。今日は第二と第三の試みから。

【下に身を投げなさい】

第二の試みは神殿の屋根の上。ただの高いところというわけではありません。神殿には多くの人びとが集まっています。悪魔は「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」(6)と言います。「この多くの人たちに、天使たちに支えられて地上に降り立つ姿を見せてやれ。そうすればだれもが、あなた(イエス)を救い主だと認めるだろう」と誘惑したのです。

主イエスは「『あなたの神である主を試みてはならない』
とも書いてある。」(7)と答えました。イエスが引用したのは申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」です。荒野を旅するイスラエルがマサという場所で、飲み水がなくなった、と、モーセと神に向かってつぶやきます。単に水を与えよ、と言っただけではありません。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」(出エジプト17:3)と、モーセを、つまりモーセを遣わした神をののしるのです。神の愛などわからないふりをするのです。このことは神とモーセにとって、これ以上ない痛みでした。神の愛を世界に伝えるイスラエルの使命は崩壊しようとしていました。このとき神はモーセに命じて、岩から水を出します。愛ゆえに。対照的に、愛なきイスラエルは、愛なき救いを求めました。水さえあれば良いと思い、水がなければ神には愛がない、と疑い、断じたのです。

悪魔の第二の試みは、まさに愛なき救いへの誘惑でした。天使に支えられたイエスの着地を見て、人びとは熱狂するでしょう。自分の望みもかなえてくれるにちがいない、と。けれども、それは愛なき救いです。神の心で、神と共に世界の破れに身を置いて、世界を回復するために働く救いではないのです。そもそも愛なき救いなどあり得ません。

私たちにも愛なき救いへの誘惑はやってきます。神を愛する神の子である私たちです。けれども大きな危機、大病や災害、経済的な欠乏、精神的なスランプなどで、愛を忘れることがあるでしょう。こんなことが起こるなんて、自分は神に愛されていない、と。けれども神は愛です。そんな私たちをも抱きしめて、凍りついた愛をとかすのです。そして私たちの問題に解決を与えます。ただ解決するだけではなく、私たちの愛を成長させ、世界を回復しながら。

【ひれ伏して私を拝むなら】

第三の試みは非常に高い山で、この世のすべての王国とその栄華を見せることでした。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(9)と悪魔は誘います。

けれども、ここには根本的な偽りがあります。悪魔は世界が自分のものだと言っているからです。世界は神のものです。神が愛をもって造り、愛をもって運営し、愛をもって贖っておられる神のもの。ところが悪魔は、自分は世界を思うようにできる、だから自分の支配の下に入れ、と言うのです。

イエスの答は「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10)。申命記6章13節の引用です。ここは「あなたが満たしたのではない、あらゆる良い物で満ちた家々、あなたが掘ったのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:11-12)に続く箇所。すべての良きものは神から与えられました。私たちが神の愛を知り、世界の破れの回復を願う神の心を知り、神と共に働くために。

【十字架の主】

第二の試みで、イエスはマサの欠乏を引いて、愛なき救いを拒みました。第三の試みでのイエスは、出エジプトの恵みを引いて、神との愛の歩みを励ましました。愛に生きるその果てには十字架が待ち受けていることを知りつつ。十字架によって私たちの愛の歩みを造ることを喜びつつ。そのことを知る私たちは幸いです。


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2025/06/09

ペンテコステ礼拝メッセージ「荒野の主」マタイの福音書4章1-11節① 大頭眞一牧師 2025/06/08


今週と来週は「荒野の誘惑」の箇所。豊かな恵みの箇所ですので、二回にわたって聴くことにします。

【悪魔=試みる者】

今、イエスがもたらす神の国。けれども世界には神の国を阻もうとする力が存在します。私たちを誘惑し、神から視線をそらさせ、神と共に生きさせまいとする力です。主イエスはそのお働きの始めに、この力と対決されました。第一の試みは「パン」。「四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた」(2)イエスに、悪魔はささやきます。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」(3)と。

【神の子なら】

この試みの本質は、「神の子なら」にあります。先週は、父の「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)というみ声を聴いたイエスです。そのイエスに「では、あなたがほんとうに神の子であることを確認したらいい。そしたら世界の破れを回復する働きを、堂々と始めることができるぞ」と誘う試みだったのです。

けれどもこの誘いは、決して応じてはならないものでした。なぜなら主イエスの使命は十字架によって世界を贖うこと。神としての力によって、力づくで世界の破れをつくろうことではなく、破れに身を投じて、わが身をもって破れをつくろうこと。悪魔は十字架からイエスを逸らせようとしました。そうして世界の救いを覆そうとしたのでした。

【神の口から出ることばによって】

イエスの答は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)でした。申命記8章3節の引用です。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」(申命記8:3)。申命記のこの箇所は、エジプトを出たイスラエルの民の四十年間の荒野の旅をふりかえっています。荒野のイスラエルは、実際には飢えることがありませんでした。マナが降ったからです。ですからこの箇所は「神はあなたがたをマナで養ってくださった。あなたがたが自ら労して食物を得るのではなく。それは、食物もみな神の恵みであることを分からせるため。そして食物よりも大きな恵みを分からせるため。神のあわれみを知り、神の心を知って、世界の回復のために神と共に生きる恵みを。」との意味。

私たちは「人はパンだけで生きるにあらず」などと言います。それを「物質だけに目を奪われてはいけないよ」という意味で使います。しかし真意はちがいます。「パンを与えてくださる神は、さらに大きな恵みを差し出してくださっている。それは神の心を知り、神と共に生き、神と共に世界の回復のために働くこと」なのです。

【神の子だから】

主イエスは、悪魔の誘いを拒絶しました。「神の子なら」と挑発されても「神の子だから」父の心を知り、父の心を生きました。主イエスの十字架によって神の子とされた私たちも、「神の子だから」父の心を生きます。

もちろん悪魔は私たちに、石をパンにしてみよ、とは言いません。けれども悪魔は私たちの目の前の石を用いて、私たちを神から引き離そうとします。その石とは、病気や貧困、地位や生きがいが得られないことなど。悪魔はそこに付け込んで、「お前が神の子なら、神がそんな石をパンに変えてくださるはずだ。お前の不足を神が満たしてくださるはずだ」と煽ります。

けれども私たちはもう知っています。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」(4b)と。私たちには確かに不足があるかもしれません。けれども神は、私たちに必要をご存じです。日々満たしてくださいます。たとえ、そうでないように見えるときも。そしてなにより、神は私たちにご自身の心を分からせてくださった。私たちは、神の子だから。だから私たちは、不足の中でも、神がこの世界の回復を進めておられることを知っています。私たちがその回復のために共に働いていることも。世界の破れのただ中で、神はよきことを造り出すことがおできになるし、今も造り出してくださっているのです。私たち抜きではなく、私たちを通して。私たちと共に。


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2025/06/03

主日礼拝メッセージ「父の子である主」マタイの福音書3章13-17節 大頭眞一牧師 2025/06/01


前回はバプテスマのヨハネが「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)、すなわち「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。『世界の破れを回復するために、立ち上がれ。そのために来られた王と共に働け』と民に告げよ」と人びとを励ましたことを見ました。今日の箇所では「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。」(13a)と。いよいよ主イエスの登場です。

【イエスの洗礼?】

イエスが来られたのは「彼(バプテスマのヨハネ)からバプテスマを受けるためであった。」(13b)とあります。ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」(14b)ととどめようとします。

前回、語ったようにバプテスマとは「自分を王とする生き方、神さまを王としない、自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わる」こと。だとするなら神であるイエスにはバプテスマは必要ないはずです。ヨハネがいぶかったように、確かにイエスのバプテスマは不思議な出来事でした。

【正しいことをすべて実現する】

ところがイエスはヨハネに「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(15a)と言います。命じるのではなく、ヨハネを招くように。そしてバプテスマを受けられたのでした。

「正しいこと」とは、神さまと同じ思い、同じ心で、神さまと共に生きること。主イエスは、今、神でありながら人となり、世界の破れの回復の新しい段階を始めようとしています。力まかせにではなく、人びとの心を神に向けさせることによって。だから先頭に立ってバプテスマを受けました。神さまの心を受け取り、神さまと共に生きる人びと。その先頭に立ってくださったのでした。私たちが後に続くことができるように。聖霊によって。そのために神が人となりました。愛ゆえに。

【天からの声】

イエスがバプテスマを受けたとき、天からの声が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と、告げました。聖書に通じたユダヤ人ならイザヤ書が頭に浮かんだはずです。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」(イザヤ42:1)の部分。旧約聖書を通して人びとが長く待ち望んでいた救いが、今、実現するのです。だれよりも神ご自身が長く待ち望んでおられました。ただそれは、神の敵がたちどころに倒される、といった救いではありませんでした。

【主のしもべの歌】

イザヤ書42章以後には「主のしもべの歌」と呼ばれる箇所が四ケ所あります。その四つ目の、クライマックスの歌が52章13節から53章12節。特に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。イエスは十字架に架けられた神、十字架に架けられた救い主、十字架に架けられた癒し主なのです。何からの癒しか?

一年12回で聖書を読む会のクライマックスは、十字架について聴く第十回ですが、先日の天授ヶ岡12回では、その前半で会を閉じました。十字架をじっくりと知っていただきたかったからです。私がいつも語ります。「イエスは私たちの問題のすべてを解決する。罪も、罪の原因も、罪の傷も、罪の結果も。私たちが新しい問題に直面するたび、その解決も十字架にある。だから十字架はたくさんの意味を持っている。私たちをすべての問題から解放し、癒すから。じっくりと、根本から。」と。

【聖霊が】

バプテスマを受けた主イエスに聖霊が降りました。神と共に生きることを可能にする、この癒しの聖霊は私たちにも注がれました。だから神は私たちをも「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と喜んでくださっているのです。私たちのすべての問題を担ってくださって。


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2025/05/20

主日礼拝メッセージ「造り出す主」マタイの福音書3章1-12節 大頭眞一牧師 2025/05/18


「そのころ」(1)は不思議です。直前の2章の終わりは、幼子イエスがナザレに行って住んだところで終わっていますから、バプテスマのヨハネの出現まで30年近い歳月が経っているはず。けれども、マタイが思わず「そのころ」と記したのには理由があります。ユダヤ人が待ち望んだ救い主がついに来ました。ずっと長く待ち望んだ期間を思えば、救い主の誕生から始まるできごとはあまりにすばらしくて、またたく間に起こったと思えたのでした。

【主の道を】

ヨハネが語ったのは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2)。他の福音書での「神の国」ですが、マタイはユダヤ人に向けて、「神」を「天」に言い換えたともいわれます。神のご支配という意味です。今、神が人となってこの世界に来られ、その支配を確立するときがいよいよ来ました。主イエスが、人びとの心を解き放ち、新しいいのちに満たすために来られたのです。ヨハネはそんな主イエスの道を備えるために現れました。人びとの心を主イエスに向けるために。

主イエスが求めておられるのは悔い改め。罪の悔い改めです。けれども、罪とは盗んだとか嘘をついたというような実際の行いだけではありません。ルターによるなら「罪とは、自分の内側に折れ曲がった心」です。自分の利益だけを考える折れ曲がりも、自分など価値がないと落ち込む折れ曲がりも、神さまの目には罪なのです。神さまは罪びとの私たちをあわれみ、どんなことをしてでも私たちを罪から救い出したいと願われ、御子を与えてくださいました。十字架にまで。

【ヨハネの水のバプテスマ】

「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(5-6)とあります。彼らはユダヤ人でしたから、ユダヤ教に改宗したというわけではありません。自分を王とする生き方、神さまを王としない自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わるバプテスマを受けたのでした。こうして、主イエスを迎える準備は整ったのでした。

【主イエスの聖霊と火のバプテスマ】

ところが、ヨハネは「大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると」(7)、厳しい言葉を口にします。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」(7)や「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(10)と。

それはパリサイ人やサドカイ人の悔い改めが不十分であったというわけではなさそうです。ヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)とも言っていますから。カギになるのは彼らがユダヤの指導者であったこと。「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(9)とあります。アブラハムの子孫であるユダヤ人には、神と共に世界の回復のために働く使命があります。だからヨハネは彼らを励ますのです。「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。世界の破れを回復するために、立ち上がれと。そのために来られた王と共に働け、と。民に告げよ」と。

パリサイ人やサドカイ人は、たじろいだかもしれません。「どうして私たちにそんなことができるだろうか、ローマの属国であるユダヤで」、と。

そこへ良き知らせが響きます。「私(ヨハネ)の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」(11)と。私たちを聖霊に満たして神の友とし、私たちの罪、すなわち自分のうちに折れ曲がった心を、引き受けてくださる主イエスがもう来られたのです。

私たちの心を内側に折り曲げようとする力は今も働きます。けれども「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされ」る(12b)お方、私たちをたいせつに抱きしめ、悪しき力を焼き尽くされるお方、私たちの王なのです。



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2025/05/12

主日礼拝メッセージ「涙をぬぐう主」マタイの福音書2章13-23節 大頭眞一牧師 2025/05/11


前回は東方の星占いたちを通して、神がすべての人を、それぞれに届く方法で招かれていることを見ました。そのとき、星占いたちはイエスを王として受け入れ、自分を献げました。ところがヘロデとエルサレムの人びとは自分を王として、イエスを拒んだのでした。

【大惨事】

自分を王とするヘロデは「ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」(16)とあります。星占いの博士たちが、イエスの誕生を報告しないで帰ってしまったために、ヘロデはイエスを特定することができなくなりました。そこで、該当しそうな男の子を全滅させようとしました。恐れゆえに。こうして、王であるイエスが来られたよき知らせは、それを受け入れない者の手によって悪しき知らせとなりました。自分を王として生きることの恐ろしさを思わされます。それは罪や恐れの奴隷でいることなのです。

けれども私たちはそんな大惨事を引き起こすことがありません。主イエスを王として受け入れたからです。私たちは主イエスが王であるというよき知らせを生きます。このよき知らせは私たちを通して世界に広まりつつあります。私たちの愛の思いと言葉と行いによって。自分を王とすることから起こる世界の破れを私たちはつくろって生きます。

【難民イエス】

ヨセフの一家は主の使いの警告によって、難を逃れました。イエスが他の子どもたちを犠牲にして生き延びたように感じるかもしれませんが、一家のエジプトでの難民生活は苦しみに満ちたものであったでしょう。神であるイエスが難民となりました。ヘロデが死んだ後も、彼らはイスラエルの中心部には住むことができず、辺境のナザレに住むことになりました。神であるイエスが!世界の片隅で身をひそめて!それは私たちのためでした。

【涙をぬぐう主】

マタイはここでエレミヤ書を引用します。「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」(18)。これはエレミヤ31:15からの引用。エレミヤがここで語っているのは、イエスの誕生の数百年前、ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人びとが連れ去られた「バビロン捕囚」のこと。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブはイスラエルという名を神から与えられましたから、ラケルはイスラエルの民の母を意味します。バビロン捕囚を嘆くイスラエルが、ヘロデに子を殺された人びとの嘆きに重ねられています。世界の破れに苦しむ私たちの嘆きもまた、神さまはご存じです。

イスラエルの人びとには、このエレミヤ箇所が単なる嘆きで終わっていないことはよく知られていました。このように続くのです。「主はこう言われる。『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。』」(エレミヤ31:16-17)と。エレミヤはバビロン捕囚からの帰還を語ります。マタイは子を失った母たちに、そして世界の破れで嘆く私たちに、「わたしがあなたがたの涙をぬぐってあげよう。あなたがたの嘆きをいやそう」と語っているのです。

【癒し主イエス】

バビロン捕囚の原因は、神の民であるイスラエルが神の心を忘れたことにありました。偶像礼拝に走って、神を自分の欲望をかなえるしもべのように扱い、他の人びとをしいたげ、むさぼりました。世界の破れを神と共につくろう使命を忘れて、逆に世界の破れを広げていたのです。自分を王として。バビロン捕囚からの解放は、そんなイスラエルの心を神に向かって解き放つためでした。バビロン捕囚からは解放されたはずのイスラエル。でも、ヘロデやエルサレムの人びとを見れば、彼らはまだ解放されていません。自分を王としています。

だからイエスが来られました。難民として成長し、やがて十字架に架けられました。けれども復活して、私たちに新しいいのちを、新しい生き方を、神の望みを自分の望みとする、神の心を与えてくださいました。ときに自分を王とする誘惑におそわれる私たちですが、こうしているうちにも日々主の癒しは進んでいます。昨日よりも今日、今日よりも明日、私たちはなお愛する者と変えられています。



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2025/05/05

主日礼拝メッセージ「星である主」マタイの福音書2章1-12節 大頭眞一牧師 2025/05/04


主イエスの誕生の記事。マタイはとても簡潔に記します。「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(1節前半)と。けれどもここにも大きな恵みがあります。ごいっしょに聴き取りましょう。

【ヘロデ王の時代に】

ヘロデは純粋なユダヤ人ではありません。イドマヤ人、ユダヤ人とエドム人の混血の民族の出身です。だから、ヘロデはユダヤ人からは低くみられていたのですが、ローマ帝国にうまく取り入ることによってユダヤの王としての地位を保っていました。ですからその立場は危うく、自分を脅かす者を排除します。親族をすら次々に殺害したと言われます。恐れに支配されていたのです。そんなヘロデに東方の博士たちが、ユダヤ人の王が生まれたと告げます。「これを聞いてヘロデ王は動揺した。」(3a)とあります。ヘロデは自分の地位を奪われることを恐れました。そして主イエスを殺そうとするのです。

けれども恐れに支配されているのはヘロデだけではありません。「エルサレム中の人々も王と同じであった。」(3b)エルサレムの人々も動揺しました。彼らは、うわべではヘロデを王と呼んでいましたが、実際にはこんな男は王にはふさわしくないと見下げていました。自分たちがとりあえず利用しているだけ。彼らもまたイスラエルの使命、すなわち世界の破れの回復、を果たそうとは考えていなかった。実は彼らの王は、ヘロデではなく、自分たちでした。だからイエス・キリストという王を恐れました。

私たちもかつてはイエス・キリストが王であることを知りませんでした。知らなかったのだからしょうがないというのではありません。知っていても認めなかったにちがいないのです。なぜなら自分が王であり、その王座を手放したくなかったからです。私たちが認める神があるとするなら、それは私たちの願いをかなえる神。私たちの人生を変えてしまう、私たちの願いそのものを変えてしまう、そんな神はいらないと思っていたのでした。

【東の方から博士たちがエルサレムに】

こうしてエルサレムの人々、つまりユダヤでも宗教的な、世界の破れの回復というイスラエルの使命を知っていたはずの人々が王であるイエス・キリストを拒みました。

ところが東方の博士たちは主イエスを受け入れました。彼らはユダヤから遠く離れたペルシア(当時はパルティア)の方面から来たゾロアスター教(拝火教)の星占い師ではないかとも言われます。彼らは旧約聖書のキリスト預言など、ちっとも知らない人びとでした。そんな彼らが星に導かれた。神さまが、彼らを導くことができる唯一の方法は星占い、だから星を用いられたのです。神さまはどんなことをしてでも、救い主の誕生を知らせようとなさいました。世界のすべての人が、救い主を知り、神が人となったことを知り、ほんとうの王を知って、恐れから解き放たれ、世界の破れをつくろうために王であるイエスと共に働くことを願われたのでした。神から最も遠い存在に思える東方の星占い師はその象徴でした。

【黄金、乳香、没薬を】

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」(10)は美しい箇所。「この上もなく!」と。彼らの喜びが、そして愛があふれ出しました。神さまへ、人びとへ、世界へ。三つの破れの回復のために。もちろん彼らが喜んだのは、主イエス。人となられた神です。贈り物として献げた黄金、乳香、没薬は、彼らのもっとも大切な宝でした。教会は彼らが自分自身を献げたのだと語ってきました。また、これらは王としての権威を示すもので、彼らは自分が王であることをやめて、まことの王であるイエスを自分の王としたのだとも。

主イエスは星。暗い世界を照らすまばゆい星です。星である主イエスが私たちをご自身へと導いてくださいました。なにか具体的な願いをもって教会を訪ねた人もおられるでしょう。ちっともかまいません。主イエスは私たち導くために、私たちにわかる方法をお用いくださるのですから。

けれども、そして主イエスに会った私たちはそのままではいません。自分の願いは、主イエスの願いと重なりました。主イエスを王とし、主イエスに自分を差し出し、主イエスの願う世界の回復のために、イエスの心で、働く者とされました。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』(6)と、宣べ伝える者とされた互いを喜びましょう。この上もなく。聖餐に移ります。


(ワーシップ 新聖歌40「ガリラヤの風かおる丘で」 Hannas Loblied & Bless)


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