2026/03/29

礼拝メッセージ「天を仰ぐ主」マタイの福音書6章9節 大頭眞一牧師 2026/03/22


「主の祈り」の第二回。今日も心を合わせて祈りつつ、耳を傾けましょう。

【あがめさせたまえ】

天の父への呼びかけに続いて、主の祈りは六つの願い求めを記します。今日はその最初の「願わくはみ名をあがめさせたまえ」。この「あがめさせたまえ」には大きな誤解があります。私たちはこれを「私たちが、あがめることができるようにしてください」という意味だと思っています。けれども本来は「神ご自身が、み名をあがめられるものとしてください」という意味。私たちが用いている主の祈りは1880年の訳。150年前には誤解の余地がなかったのですが、日本語が変わってきたのです。それで「私たちが」という誤解が起こってしまいます。

【聖とするお方】

口語訳の主の祈りでは「み名が聖とされますように」とあります。聖書が「聖」というとき、それは、「神のものとされた」ことを意味します。イスラエルが「聖なる民」であるのは、神がこの民を選び、ご自分の民とされたから。安息日が「聖なる日」であるのは、神がこの日を選んで、神を礼拝する日としたから。ですから何かが聖なるものとなるのは、神がご自分のものとして選んだから。私たちがどんなにあがめても、それで「聖」となるわけではありません。み名を聖とするのは神さまご自身なのです。

エゼキエル書36章にこうあります。「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。(中略)わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが【主】であることを知る──【神】である主のことば──。」(エゼキエル36:17-18、23)

暴虐と偶像礼拝によって、神のみ名を汚したイスラエル。そのイスラエルに神は「あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す」と語ります。捕囚で散らされたイスラエルを、もう一度選んで、集め、ご自分の民とすること。そんな神の愛が輝くこと、それが「み名を聖とすること」なのです。人はただその愛を受け取るだけ。私たちが神のみ名を聖とすることとは真逆です。

【み名を汚す私たち】

私たちは繰り返し、神のみ名を汚しています。ルターは罪を「自分の内側に折れ曲がった心」と読みました。そんな心の、愛の足りない思いが、愛の足りない言葉が、愛の足りない行動が、神のみ名を汚します。私たちが、神のみ名を聖とするどころか、神のみ名を汚していることに気づくとき、私たちの心は痛みます。

【闇を照らす光が】

けれども、そこに主イエスの福音が響き渡ります。「父よ、み名が聖なるものとされますように!」。

そもそも私たちはみ名を汚すことができるのは、私たちが神の民だからです。神の民でない者は、神のみ名を汚すこともできないのです。そして、神はご自分の民を決して見捨てることがありません。放蕩息子のたとえのように、父は息子が罪深ければ、罪深いほど、なお愛を注ぐのです。注がないではいられないのです。必ずご自分の子をとりもどし、洗って、子としての装いをさせ、大宴会を催すのです。そのように神のみ名は聖なるものとされます。世界が神の愛の大きさを、あわれみの深さを、赦しの限りなさをほめたたえるのです。不思議なことです。私たちの汚れが、神のみ名を聖とするのです。私たちが胸を張るような功績ではなく。

そんな私たちは、神を喜びます。神ご自身を喜び、そんな神の民とされた互いを喜び合います。そんな喜びの教会は、神ご自身がみ名を聖とする器です。功績ではなく、汚れを赦され洗われたことによって。汚れを赦され続け、洗われ続けていることによって。京都信愛教会・天授ヶ岡教会・明野キリスト教会のそれぞれに高く掲げられた主イエスの十字架が指し示すとおりに。




(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/03/27

礼拝メッセージ「私たちの主」マタイの福音書6章5-15節 大頭眞一牧師 2026/03/15


今週から、聖書は「主の祈り」に入ります。主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださった、つまり神さまが望まれる祈りを聴き取りましょう。

【神さまの望み】

共に暮らしている人との会話は、その人との関係が表れます。祈りは神との会話。ですから例えば「家内安全商売繁盛」といった祈りばかりしているとしたら、その人と神さまとの関係はご利益(りやく)によって結ばれているということになります。あるいは困ったときだけ祈るとしたら、困っていないときには神さまと共に生きていない、ということになります。ですから主イエスは私たちに主の祈りを教えてくださいました。神さまがどのような関係を望んでおられるかを、教えてくださったのです。

【あなたがたの父】

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」(9a)は先立つ「偽善者たちのように祈るな」(5a)「異邦人のように祈るな」(7a)を受けています。前回聴いた箇所ですが、偽善者のように人に聞かせるために祈るな、また、異邦人のようにくどくど「ことば数が多いことで聞かれると思って」(7b)祈るな、と。私たちも「祈りが足りなかったら聞かれない」と勘違いすることがあります。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」(8bc)ことを忘れてしまうからです。

あなたがたの父! イエスが教えてくださった神さまの望まれる関係、いえすでに神さまが実現してくださっている関係は、父と子の関係。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8b)とあります。父は、子どものために本当に必要なものを、子どもが願ったからではなく、子どもが願う前に与えます。子どもにとって、良くないものなら、子どもがどんなに願っても与えません。

ですから、私たちは神さまがそんな父であることをこころとたましいに刻むのです。忘れがちな私たちですから、毎日、「天にましますわれらの父よ」と呼び掛けて、神さまが私たちの父であることを、たましいの習慣とするのです。

【天にましますわれらの父よ】

だから「天にましますわれらの父よ」は、主の祈りの最も大切な一言です。この一言があるから、私たちは、異邦人のように祈りません。神さまが父であることを知っているからです。もし主の祈りの続きが出て来なかったとしても、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができれば、それで十分。それほどの一言を主イエスは与えてくださいました。

けれども、私たちは思います。「自分は、心から、『天にましますわれらの父よ』と祈っているだろうか。ほんとうに、必要のすべてを祈らずとも与えてくださる父よ、と祈っているだろうか。」と。そして、自分の祈りが、異邦人のような、くどくどした言葉数の多い祈りであることに気づかされ、うなだれるのです。

【アバ、父よ】

しかし、ここによい知らせがあります。主イエスは十字架の前夜、ゲッセマネで「アバ、父よ」と祈りました。当時のユダヤ人たちは神に向かって「父よ」と祈ることはあったようですが、「アバ、父よ」と祈ったのは主イエスだけ。「アバ」は破裂音。まだ幼くて、発音がうまくできない子どもたちにも使える、父を表す言葉。「お父ちゃん」あたりになります。パウロも「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」(ローマ8:15-16)と記します。つまり、主イエスが人となり、十字架に架かって、復活したのは、私たちが「アバ、父よ」と回らぬ舌で、心から呼ぶことができるため。私たちが心から「天にましますわれらの父よ」と呼ぶことができるためだったのです。

ですから、私たちは、心から「天にましますわれらの父よ」と今日も祈ります。1月の新年聖会で藤本満先生が「ヤコブは自分の敗北をささげた」と語ってくださいました。私たちもまた、神を父として信頼できない敗北、異邦人のようにくどくど頼みごとをしてしまう敗北をささげます。神に対する私たちのそんな疎遠な思いを、担って十字架で処置してくださったからです。子としてくださったからです。今日もそんな喜びを私たちのこころとたましいに刻んでくださったからです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/03/17

【開催中】井上直聖書絵画展「Agnus Dei -神の仔羊-」🐑 3/21(土)まで・入場無料

※この記事は 3/21(土)まで京都信愛教会で開催中の「井上直聖書絵画展」のご紹介です。

3月15日より、京都信愛教会にて 井上直 聖書絵画展「Agnus Dei -神の仔羊-」が始まっています。3月21日(土)まで、入場無料でどなたでもご覧いただけます。



🎨 聖書を描き続ける画家・井上直さん

井上直(いのうえ・なお)さんは、聖書を主題とした油彩画を制作し、全国各地の教会を会場に作品を発表しているクリスチャン画家です。5代続くクリスチャンの家庭に生まれ、高校の卒業制作で初めて聖書を題材とした作品を手がけて以来、信仰と祈りを絵筆に込めて描き続けてこられました。

2024年には初の作品集『Uprightly, 直く。』(いのちのことば社)を刊行。聖書協会共同訳の新約聖書のカバーに作品「降誕」が採用されるなど、近年大きな注目を集めています。



🐑 「Agnus Dei」— 受難と希望の絵画展

「Agnus Dei(アニュス・デイ)」はラテン語で「神の仔羊」を意味し、イエス・キリストを象徴する言葉です。今回の展覧会では、キリストの受難と復活、祈りと希望をテーマにした作品が展示されています。

十字架のキリスト、静かに祈る人の姿、光に満ちた聖誕の場面——。聖書を読んだことがない方でも、絵は言葉を超えて何かを語りかけてくれます。信仰の有無にかかわらず、どなたでもお気軽にお越しください。



✏️ 作者の井上直さんが在廊しています

3月17日(火)を除き、会期中すべての時間帯で作者の井上直さんご本人が在廊されています。作品に込めた思いやエピソードを直接伺える貴重な機会です。ぜひお気軽にお声がけください。

なお、3月17日(火)は当教会の大頭牧師が在廊いたします。こちらもどうぞお気軽にお越しください。




📌 開催情報

  • 期間: 2026年3月15日(日)〜3月21日(土)
  • 時間: 10:00〜19:00(初日3/15のみ13:00〜)
  • 会場: 日本イエス・キリスト教団 京都信愛教会
    (京都市北区大将軍坂田町21番地12)
  • 入場無料・予約不要
  • アクセス:
    JR山陰線「円町」駅から徒歩15分
    京都市営バス8・10・26系統「等持院道」から徒歩2分
    🚗 教会に駐車スペースあり(台数に限りがあります)
  • お問い合わせ: 075-461-1938

お散歩がてら、お買い物の帰りに、ふらりとお立ち寄りください 🚶 お知り合いやご友人もお誘い合わせのうえ、ぜひお越しいただければ幸いです。

➡️ 告知記事(チラシ・アクセス詳細)はこちら

どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。




2026/03/10

受難説第二礼拝メッセージ「祈りの主」マタイの福音書6節5-8節 大頭眞一牧師 2026/03/01


マタイ6章1節から18節には神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることが語られています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「祈り」について聴きます。祈りとは神との愛の交わり。中世の教会指導者の言葉に「祈りとは神との友情を育むこと」があります。イエスご自身が最後の晩餐で私たちを「友」と呼んでくださったのですから。

【偽善者たちのようではなく】

主イエスは今日の箇所で、この祈りの心を教えてくださっています。決して「祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい」と言っておられるのではありません。神さまの友である私たちが、嘆きや喜びに出会うとき、溢れ出すのが祈りです。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。」(5a)と命じられているのもそのためです。「彼ら(偽善者たち)は人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」(5b)とあります。当時、祈ることは立派な信仰深いことだと見なされていました。ですから彼らは祈りを人に見せて尊敬されようとしました。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(5d)と、彼らはすでに自分の欲する報いを受けています。人から尊敬されているのです。けれども、これは神さまとの友情には関係ないことでした。

【人の目ではなく神のまなざしの中で】

主イエスは「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と教えられました。弟子たちをいつくしむように。先週は、レプタ2つのやもめのことを語りました。あのやもめは、思い煩いや人の目からの解放を喜びました。神さまもまた、やもめを喜んでくださいました。それは祈りも同じです。神さまと二人きりで、だれかと自分を比較することを忘れ、自分の祈りの善し悪しも忘れ、神さまに自分を捧げる、つまり、自分を与えてしまい、まかせてしまう、それが祈りです。喜びも悲しみも、神さまと共有して。そのとき私たちは確かに報いを受けます。私たちが切に願ってやまない、神との友情という報いを。

【くどくど祈るな】

主イエスは「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」(7a)ともおっしゃいました。祈りとは願い事を並べることではありません。それでは人間が「主」となって神さまは「しもべ」となってしまいます。偶像礼拝の問題はそこにあります。相手がほんとうの神さまであっても、私たちがただ願い事を聞いていただくことだけを期待するなら、それは偶像礼拝に等しくなってしまうのです。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8)とあります。私たちは自分の必要、願いを知っていただくために、一言も祈る必要はありません。神さまはすでにご存じだからです。それも、私たちが願うよりも、もっと私たちに必要なものを、もっと私たちによきものをご存じで、与えてくださるのです。

【ゲッセマネの祈り】

思い出すのは、やはりゲッセマネ。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39b)とイエスは祈られました。イエスはその苦しみを、父に申し上げました。父がご存じであることを知った上で、そうしないではいられなくて。「神の子が泣きごとを言ったらどう思われるか」などということも、投げ捨てて。そうするときに、その苦しみの奥にあるほんとうの願いが輝きました。わたしの望みではなく、あなたの望みを、と。

私は思うのです。私たちは「祈りが足りない者で」とあいさつのように言ってはならない、と。祈りが足りようが足りまいが、私たちは神の友なのですから。「手鍋下げても」という言葉があります。私たちも貧しくなられた主イエスと旅を続けます。わずかな、それも神さまから預けられた賜物をもって。そんな旅をする私たちは幸いです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/03/09

礼拝メッセージ「報いてくださる主」マタイの福音書6節1-4節 大頭眞一牧師 2026/02/22


マタイ5章から7章は「山上の説教」と呼ばれる箇所。6章は内容においても「山上の説教」の中心箇所といえます。少し間があきましたので、まずは5章をふりかえることにしましょう。

【隣人を愛し、敵を憎め】

5章は八つの「幸いの教え」によって始まりました。1節から12節には、「○○な者は幸いです。その人は◇◇からです。」と繰り返されています。私たちが「天の御国」つまり「神の支配」にすでに入れられている、だからあなたがたの中には新しい生き方、愛する生き方がもう始まっている、と祝福しているのでした。
5章13節以下には、私たちが、地の塩、世の光であること、すなわち神の愛に満たされ、あふれて、世界へ愛を注ぎ出す私たちであることが語られています。そんな私たちは「律法学者やパリサイ人の義」にまさる者です。なぜなら律法を超えて、神の友として、神の愛に似た愛を注ぎ出すからです。

【心が変えられたからこそ】

6章に入って1節には「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とあります。これは6章1節から18節の見出しのような箇所、神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることを語っています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「施し」について聴きます。

【神からの報い】

善行について主イエスは、「人前で善行をしないように」(1a)、「そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」(1b)と戒め、「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」(2a)と誇張した語り口を用いて警告します。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(2c)と警告が重ねられて。さらに「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(3)と念押しがされています。
ここで、よくある誤解は、人前で善行をすると人からの評価は得られる、でも匿名でした善行は人には知られないが、神から報われるというもの。私もなんとなくそんなふうに思っていました。しかしそれだと、たとえば何かの働きを支援したいと思うときに「さあ、みなさん、この働きを支えましょう。私も献げます。ごいっしょに!」というような呼びかけは神さまに喜ばれないのだ、ということになってしまいます。それはなんだか変ですね。

【解き放たれた私たち】

「偽善者たち」は実は気の毒な人びとです。人の評価を気にする生き方に縛り付けられているからです。彼らにも必要が満たされないでいる人びとへのあわれみがないわけではないでしょう。けれどもあわれみよりも、そんな自分を他の人がどう見ているか、ちゃんと自分の善行を見てくれているか、そしてあなたはすばらしい人だと言ってくれるかどうかが、大きくなって、気になってしようがないのです。
ここで思いだすのは、ルカ21章の「レプタ2つ」のやもめのたとえ。みなさんも、この個所からのメッセージをお聴きになったことがあるでしょう。レプタ銅貨二つは、神殿でのこれ以下は献げてはならないとされていた最低献金額、250円ほどに相当するといいます。けれども、主イエスは、このやもめの心を、神さまは喜んだのだと教えます。このやもめの喜びにご自分の心を重ねるようにして。注意すべきはやもめは毎日生活費を献げていたのではないことです。それでは生きていけませんから。しかしその日、やもめから神への喜びがあふれました。明日はどうあれ、今、その喜びを注ぎ出さないではいられなくなりました。生活の不安もあったでしょうが、それも神さまの御手に投げ込んでしまいました。こんな少しの献金で恥ずかしいという思いからも解き放たれて。神さまはその解放の瞬間を喜ばれました。そしてなおなお愛を注ぎ込んでくださったにちがいありません。

【私たちの喜び】

ですから「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(4b)は、将来ではなく、今すでに始まっている喜び。主イエスが与えてくださった新しい生き方が、神と人へほとばしる生き方の喜びのことです。そんな私たちは、人が見ていようが見ていまいが、そこから解き放たれています。変えられた、神さまとシンクロ(同期)する心で施し、献げるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/03/07

【井上直聖書絵画展 2026/3/15-3/21】のお知らせ

 ※この記事は 3/15-3/21に開催される「井上直聖書絵画展」のお知らせです。

井上直 聖書絵画展 Agnus Dei-神の仔羊-が行われます🐑


  • 期間
    2026年3月15日(日)〜3月21日(土)
    10:00〜19:00(3月15日は13:00〜19:00)
  • 会場
    日本イエス・キリスト教団京都信愛教会
    (京都市北区大将軍坂田町21番地12)
    JR山陰線「円町」駅から徒歩15分
    または京都市営バス8,10,26系統「等持院道」から徒歩2分
    教会に、多少の駐車スペースがあります🚗


入場は無料です。どなたでもぜひお越しください⛪️

(信徒かどうかを問いません)


どうぞお知り合いの方、ご友人の方もお誘いいただき、私たちを贖ってくださった主の愛をともに覚える時となれば幸いです。


「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

イザヤ書 53:5 (新改訳2017)


詳しくは、下のチラシをご覧ください。(PDF版



前回開催時の様子(2024年3月)






ご不明な点は、お気軽にお尋ねください。


問い合わせ先: (075)461-1938

牧師: 大頭・宇野


どのようなお立場・信仰をお持ちの方でもどうぞお越しください。信仰を押しつけるようなことは決してありません。

当教会は伝統的なプロテスタントの流れを汲むキリスト教会です。エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、統一協会(世界平和統一家庭連合)などの新宗教とは一切関係ありません。


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2026/02/10

礼拝メッセージ「愛の主」マタイの福音書5章43-48節 大頭眞一牧師 2026/02/08


5章21節以下で主イエスは、旧約聖書の律法の教えを対比するかたちで「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と新しいいのちの生き方を語って来られました。今日はそのように語られてきた六つの生き方の最後、しめくくりです。

【隣人を愛し、敵を憎め】

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(43)という言葉は実際には律法にはありません。あるのは「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:18ab)です。そこには「敵を憎め」とはありませんから、これはユダヤ人たちが後で付け加えた言い伝えです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、そしてローマによる他国の過酷な支配が続く中で、その痛みがユダヤ人たちを同胞であるユダヤ人を愛し、圧制者である他国人を憎む思いに駆り立てたことは無理ないことです。けれどもそんな生き方は、憎しみの中に自分を閉じ込めて、憎しみの奴隷になる生き方。主イエスはそんな生き方から私たちを解き放つために、この世界に生まれてくださり、十字架に架かって、復活のいのちをもたらしてくださいました。

【よきサマリア人のたとえ】

主イエスがくださった新しい生き方を表しているのが「よきサマリア人のたとえ」。当時ユダヤ人にとってサマリア人は、ローマ人についで鼻持ちならない宗教的異端で、人種的には汚れた存在でした。イエスのたとえは、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人がユダヤ人を助ける、という驚くべきもの。同胞であるユダヤ人は仲間を助けようとはしなかったのに。そして「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37d)と結ぶのです。意図は明確です。主イエスの与える新しい生き方は、憎しみから私たちを解き放ちます。敵だと思っていた相手ももはや敵ではなくなります。自分を苦しめる人も、憎しみの奴隷となっている、痛みを抱えた、癒しを必要としている存在に見えてくるのです。

【天におられるあなたがたの父の子どもに】

敵を愛する!どうしてそんなことができるのでしょうか。正直に言えば、私自身、「あなたを愛します」と心から言うことのできない相手がいます。けれども「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(45)とあります。私たちはすでに神の子どもです。神の愛は私にも相手にも注がれています。あふれるほどに。そんな愛の中で、私はゆっくりと深いところから癒されつつあります。傷の痛みは和らぎ、傷そのものも回復しつつあります。私はやがて、その相手にも心から「私はあなたを愛します」と言えるようになります。急ぐ必要はありません。神さまの胸の中に身をゆだねるなら、あとは神さまが引き受けてくださいます。

そうするうちに私たちにも神さまの心が沁みてきます。これまでもだんだん神さまのあわれみを知ってきた私たちです。さらに深く神さまのあわれみの心を知り、自分の心もそんな心に変えられていきます。もうそんな心は私たちのうちに始まっているのです。

【正しくない者にも】

それにしても「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、「正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45b)には引っかかるものがあるでしょう。「自分を愛してくれる人」(46a)だけでなく、愛してくれない人も愛しなさい、も、とてつもなく困難に思えます。カギは私たちがすでに神の子どもとされていることにあります。自分を愛してくれない人を、神はどのように見ておられるだろうか。父は子を十字架に送り、子は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34b)と叫ばれました。神は自分を愛さない者、自分を憎む者をあわれに思って、なおなお愛を注ぐのです。先ほどのCS紙芝居で語った通りです。そんな神の心が私たちにすでに与えられています。「いえ、私はゆるせません」と言う前に静かに自分の心に聞いてみてください。「ほんとうはゆるしたい。ゆるせたらいいのに」という思いの芽生えがあるなら、神がその芽を大きく育ててくださいます。

【キリスト者の完全】

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(48)はいつもお語りしている姿勢の完全。さらに知りたい方は「聖化の再発見・ジパング篇」に詳しいです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)