2026/05/07

礼拝メッセージ「今日与えてくださる主」マタイの福音書6章11節 大頭眞一牧師 2026/04/26


今日はこの後、信愛で葬儀が行われます。その備えがすでに整った中で、召された方と共に礼拝を捧げています。けれども、説教はいつものように主の祈り。召されたこの方が、毎日祈っていた、そして私がお訪ねしてはいっしょに祈った主の祈りから神さまの愛を聴き取らせていただきましょう。

【今日も、ご飯を】

今日は「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(11)。私たちが先ほど祈った主の祈りのことばでは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。「糧」と訳されている言葉は「パン」です。日本人にぴったりな言葉では「ご飯」。ですから「神さま、ご飯を今日も与えてください。飢えることがないようにしてください。」そういう祈り。

「なんだ、そんなことか。」とこの時代の私たちは思うかもしれません。私自身、食べ物がなくて困ったという経験はありません。けれども、この午後、私たちが葬ろうとしている仲間は昭和6年生まれ。終戦が昭和20年ですから、そのとき育ち盛りの14歳。ご本人はあまりつらかったことを話す方ではなかったのですが、あの時代のさまざまな困難を経験したことでしょう。ですから「神さま、ご飯を今日も与えてください。」というのは、ご本人にとって真剣な祈りであったにちがいないのです。

【私たちを生かす糧】

けれどもこの方の、そして私たちの祈りはそこにとどまりません。「パン」や「ご飯」が必要なのは、それらを食べることによって、私たちがエネルギーを得ることができるからです。だから生きることができるのです。では、「パン」や「ご飯」があれば、生きることができるのか。もちろんそうではありません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と語りました。もし食べ物がありあまるほどにあったとしても、神のことば、すなわち神の愛を知らなければほんとうの意味で生きることはできません。ですから、私たちが主の祈りを祈るとき、ただ「ご飯」だけではなく、私たちをほんとうに生かしてください。そのために必要なものを、愛を、与えてください、と願うのです。

【神の愛によって】

この私たちの仲間のおられた施設に、私は折々にお訪ねしました。たいていは、他の仲間といっしょに行きました。そのようなときにはたくさん讃美歌を歌ったものです。けれども、あるとき、私がひとりで行った。するとこのお方が自分のご生涯を語ってくださった。ご自分がどのようにキリストに出会ったかを語ってくださった。私たちはみな、それぞれ懸命に生きる。けれども、その中で、自分でも「これはどうなのか」と思うような、思いや、言葉や、行動が出てしまうことがある。そのことは私たちの内側のトゲとなり、痛みとなり、それがまた、私たちの思いや、言葉や、行動をゆがめていく。そんなことがない人は一人もいないと思うんです。この方もそうであった。けれども、あわれみ深い神は、この方をそのままにはして置かれなかった。そのままにして置くことがおできにならなかった。だから不思議なようにこの方を教会に導かれた。そしてイエス・キリストが出会ってくださった。

その時、この方と私は祈りました。感謝の祈りをささげた。キリストが私たちに出会ってくださったこと、私たちのゆがんだ思いや、言葉や、行動をご自分が引き受けてくださった。その原因を、その歪みそのものを、そして歪みが世界に与えてしまった影響のすべてを。そして、私たちがほんとうに人間らしく、神と人を愛して生きる、そんな自由へと解き放ってくださった。「あなたは生きろ。わたしがすべてを負ったから。十字架の上で、すでに。」と。この方も私も、その言葉を受け入れることができた。そして、どうかと思うような自分を受け入れ、癒され、生きることができるようになった、生きている、そのことを感謝したのでした。

【ルターのりんごの木】

この私たちの仲間は明るい方でした。その明るさは生まれつきのものであったのかもしれません。けれども、やはりそれだけではない。キリストを信じる者たちの明るさは、神を知らない生き方の暗さを知った上での明るさ。暗闇から光へと招き入れられた者の明るさ。そんな私たちは世の光として周りを照らす。宗教改革者ルターは「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」と言いました。私たちは地上の生涯を終えるその時まで、置かれた場所で、きちんと持ち場を守って、愛を注ぐ。そんな毎日が世界をほんの少しずつ変えていく。いのち果てるまで。いのち果てるとも。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/05/06

礼拝メッセージ「愛のみこころの主」マタイの福音書6章10節 大頭眞一牧師 2026/04/19


今日は主の祈りの中の「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(10b)から聴きます。私たちの祈る主の祈りの言葉では「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」です。

【神のみこころ】

神の「みこころ」とは神の「意志」。「みこころをなさせたまえ」は、「神さま、あなたのご意志をその通りに実現させてください」という祈り。これは簡単な祈りではありません。私たちは現実には、神のご意志ではなく自分の意志や願いが成ることを求めていることも多いからです。神の意志と自分の意志がぶつかり合うなら、自分自身の願いを捨てて、自分の思いではなく神の意志を優先させると祈るのです。

【神の愛のみこころ】

そんなふうに言うと、私たちは神の意志を優先するのはつらい自己犠牲のように感じてしまいます。けれどもほんとうはそうではありません。神の意志は愛の意志。私たちをどこまでも愛し抜く愛の意志なのです。少し前の8節にも「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」とありました。私たちに必要なものを、しかも私たち以上に知っておられる父のご意志。それは、善き意志です。私たちが自分のために願うことよりも善きことを与えるご意志。ですから、私たちの願いを捨てることは自己犠牲ではあり得ません。私たちのためなのです。私たちが手に「わら」を握りしめていたら、どうでしょう。父が善きものを与えようとしても受け取ることができません。手を開いて「わら」を捨てて、初めて、父からその善きものを受け取ることができるのです。そのとき私たちは自分がたいせつに思っていた「わら」よりも、はるかにすばらしいものをいただいたことを知るのです。

ただ、誤解がないようにと願います。私たちの願う健康や経済的な祝福、職場や学校での祝福、それらが価値のない「わら」のようなものだから捨ててしまえ、というのではありません。それらは必要なものであり、それぞれ価値のあるものです。けれども、父なる神は「わたしはあなたの必要を知っている。もちろんそれを満たしてあげよう。あなたが願うようにではないかもしれないが。そして、あなたを世界の破れの回復のために用いてあげよう。それがわたしの愛の意志なのだ」と語られるのです。

【ゲッセマネで】

神のみこころを祈ったのは、もちろん、だれよりも主イエス。十字架前夜、主は、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(26:39)と祈ります。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」は主イエスの正直な思い、願い。十字架の痛みや恥というよりも、父との断絶こそ、イエスがもっとも避けたいと願われたことでした。けれどもただちに「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と主イエスは続けました。父のみこころ、父の愛の意志が最善だと信頼し、その意志にご自分をゆだねてしまわれたのでした。実現した神のご意志は、ほんとうにすばらしいものでした。主イエスの復活と悪の力が滅ぼされたこと、私たちに主イエスの復活のいのちと聖霊が注がれ、愛に生きる者とされたこと、そして今や、私たちが神の子として、神の友として世界の愛の破れを繕う者たちとされたこと。

【地でも】

私たちの願いや思いのうちには、実現しないこともあります。病や死、また、仕事や学業、家庭において、願うことがかなわないことはだれにもあります。もし私たちが、それらの願いを固く握りしめて手放さないなら、私たちの毎日は失望に支配されることになります。けれども幸いなことに、私たちは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈ることができます。父の愛の意志が、私たちの失望をも貫いていることを知っているのです。主イエスの世界で一番つらい失望、絶望。父はその中に、世界で一番喜ばしい、復活のいのちを創り出してくださいました。私たちも自分たちの願いや思い、またそれらが叶わないという失望を軽く握って、父のご意志とぶつかるなら手放します。そして父の愛のご意志を受け取って、喜びの毎日を生きます。父が招き、主イエスが聖霊によって、私たちを励まし、強めてくださるから、そうすることができるのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/04/12

礼拝メッセージ「御国の主」マタイの福音書6章10節 大頭眞一牧師 2026/03/29


今日は棕櫚の主日。いよいよ受難週です。主イエスの十字架と復活の福音に今日も聴き入ります。

【み国を来たらせたまえ】

主の祈りの六つの願い求めの二つ目は「御国が来ますように」(10a)。いつも祈る主の祈りの言葉では「み国を来たらせたまえ」です。「み国」は神の国。神の支配を来たらせてください、と祈るように主イエスは教えてくださいました。

私たちが「み国を来たらせたまえ」と祈るのは、特に、自分が具体的な悩み悲しみをかかえているとき、また、自然災害や戦争などの世界の様ざまな問題に直面するときでしょう。しかし、それらの問題の解決を祈りながらも、どこか私たちは、「実際には難しいだろうな、遠い将来までは」と、そんなあきらめのような思いを抱いているのではないでしょうか。

けれども、神の国はすでに来ています。主イエスの十字架と復活によって。マタイ4章には「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国(神の国)が近づいたから』と言われた。」(4:17)とあります。神の国は近づいた。手を伸ばせば届くところまで来た。主イエスがこの世界に来てくださったことによって。主イエスの降誕・十字架・復活によって。ですから私たちはもうすでに神の国に入れられています。つまり「み国を来たらせたまえ」は「すでにもたらされた神の国の中で私たちが生きることができるようにしてください。すでに神の国に生きていることを、私たちが心に刻んでいることができるようにしてください。」という祈りです。

【十字架によって】

すでに来ている神の国。すでに神の国に生きている私たち。それなのになぜ私たちは、まだ神の国が来ていないかのように感じてしまうのでしょうか。それは、私たちが「神の国が来れば、悩み悲しみや苦しみもすべて解決されて、喜びあふれる平和な世界が訪れるはず」だと思っているからでしょう。

けれども、神さまはこの世界を、今、ただちに、悩み悲しみや苦しみもすべて解決されて、喜びあふれる平和な世界にはなさいません。神の国、神の支配は、そのような支配ではないからです。神の支配は、主イエスによる支配。十字架の苦しみと死による支配です。主イエスは十字架で、私たちの罪とその原因とそのすべての結果・影響を引き受けてくださいました。そして「あなたには負うことができない、あなたを歪め、立てなくする重荷、罪を、わたしが引き受けた。罪とその原因と結果のすべてをわたしが引き受けた。だからあなたはまっすぐに立って、生きよ。わたしの愛によって、わたしの愛の中を、わたしと共に愛する者として生きよ!わたしと共に世界の愛の破れを繕うために生きよ!」と招いてくださっているのです。

キリストの支配は、苦しみつつ世界の苦しみを癒す支配。愛の支配。自分を与える支配。そんな支配であり、すでに私たちはそんな生き方を始めているのです。

先日、ふとAIに最近の大頭眞一の説教の特徴を訊ねてみました。AIをうのみにするのは危険ですので、上手に用いる必要があります。いくつかの特徴のうちの一つが「大頭眞一は、苦しみが、信仰の足りないせいとか、神の罰として語らない。苦しみは消えることよりも、苦しみの中で神と出会い、苦しみの中で神と共に生きることを強調する。そして苦しみをしばしばキリストの十字架に結び付ける。神がこの世界の私たちの苦しみの中に入り、苦しみつつ世界を回復させ、私たちも共に働くように招き、そして最後には世界の愛の支配を完成すると語る」でした。今日も同じことをお語りしました。みなさまに手渡しました。

【主語は神さま】

そうは言っても、と私たちは思います。苦しみながら神さまと共に働く、そんなことが私たちにできるだろうか、と。もちろん私たちにはできません。だから「み国を来たらせたまえ」なのです。アッバ、お父ちゃん、そんなこと私にはできません。アッバ、と神さまの胸でぐずるのです。私たちのアッバは、「そうだ。あなたにはできない。だから、わたしがそうさせてあげよう。あなたにいのちを注ぐことによって。あなたに愛を注ぐことによって。あなたではなく、わたしがそうしてあげよう」と、おっしゃっています。そして、ぎゅっと私たちを抱きしめてくださっています。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/04/10

京都に来られた皆さん、京都信愛教会の礼拝、教会学校、聖書を読む会にどうぞご参加ください!

🌸 この春、進学やお仕事で京都に引っ越して来られた皆さん、ようこそ京都へ!

新しい街での生活、期待と同時にちょっぴり不安もありますよね 😊 そんな皆さんに、京都で安心してほっとできる居場所をご紹介します。


⛪ 京都信愛教会ってどんなところ?

京都信愛教会は、日本イエス・キリスト教団に属するプロテスタント教会です ✝️ 伝統的な信仰の流れをくむ教会で、毎週の礼拝には約70名が集っています。

牧師は大頭眞一(おおず・しんいち)先生と、2026年4月に着任された金度完(キム・ドワン)先生の2名です 🙏


🕐 こんな集まりがあります

🔔 主日礼拝(毎週日曜 朝10:30〜) 教会の中心となる日曜朝の礼拝です。みんなで賛美を歌い、聖書のメッセージに耳を傾けます 🎵 初めての方も大歓迎です!

📖 教会学校(毎週日曜 朝9:30〜) 幼児〜高校生のための礼拝と学びの時間です。年代別に分かれて聖書を学びます 🧒👦 保護者の方もご一緒に参加されることが多いですよ。楽しい行事もほぼ毎月あります 🎉

👉 礼拝・教会学校の詳しいご案内はこちら → 教会の集会


📚 「一年12回で聖書を読む会」もおすすめ!

聖書に興味はあるけど、一人で読むのはちょっとハードルが高い…🤔 そんな方にぴったりなのがこの会です!

毎月第3土曜日 09:00〜10:30 / 10:30〜12:00 の2枠

✅ 対面(教会)でも Zoomでも参加OK 💻

✅ 欠席しても 録画が見られる ので安心 📹

参加費無料!聖書もテキストも用意があります 🎁

✅ どんな信仰のお立場の方でも参加できます 🌏

2024年4月の開始から、これまで約30人が参加されていて、とても好評です ✨

講師は聖書の専門家・大頭眞一牧師。英国での神学教育を受け、聖書に関する著書も多数あります 📕

👉 スケジュールや申込みの詳細はこちら → 一年12回で聖書を読む会


🤗 はじめての方へ

「教会って行ったことないけど大丈夫?」── もちろん大丈夫です!👌

信仰を押しつけるようなことは決してありません。京都での新生活の中で、心が休まる場所、新しいつながりを見つけてみませんか? 🌿

教会員一同、心からお待ちしています 😄🙌

📍 アクセスなど教会の詳しい情報は → 京都信愛教会ホームページ

金度完牧師が着任しました(大頭眞一牧師との共働牧会)

2026年度より 金度完牧師 が着任しました。


プロフィールは 牧師の紹介ページ に掲載しています。


大頭眞一牧師との共働牧会として、以下の 3教会を 2牧師が担当しています。


両牧師が協力しながら、教会員や来会者の方の様々なニーズに対応します。

来会の方々には、それぞれの牧師と信仰について話す機会が持たれましたら幸いです。

2026/03/29

礼拝メッセージ「天を仰ぐ主」マタイの福音書6章9節 大頭眞一牧師 2026/03/22


「主の祈り」の第二回。今日も心を合わせて祈りつつ、耳を傾けましょう。

【あがめさせたまえ】

天の父への呼びかけに続いて、主の祈りは六つの願い求めを記します。今日はその最初の「願わくはみ名をあがめさせたまえ」。この「あがめさせたまえ」には大きな誤解があります。私たちはこれを「私たちが、あがめることができるようにしてください」という意味だと思っています。けれども本来は「神ご自身が、み名をあがめられるものとしてください」という意味。私たちが用いている主の祈りは1880年の訳。150年前には誤解の余地がなかったのですが、日本語が変わってきたのです。それで「私たちが」という誤解が起こってしまいます。

【聖とするお方】

口語訳の主の祈りでは「み名が聖とされますように」とあります。聖書が「聖」というとき、それは、「神のものとされた」ことを意味します。イスラエルが「聖なる民」であるのは、神がこの民を選び、ご自分の民とされたから。安息日が「聖なる日」であるのは、神がこの日を選んで、神を礼拝する日としたから。ですから何かが聖なるものとなるのは、神がご自分のものとして選んだから。私たちがどんなにあがめても、それで「聖」となるわけではありません。み名を聖とするのは神さまご自身なのです。

エゼキエル書36章にこうあります。「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。(中略)わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが【主】であることを知る──【神】である主のことば──。」(エゼキエル36:17-18、23)

暴虐と偶像礼拝によって、神のみ名を汚したイスラエル。そのイスラエルに神は「あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す」と語ります。捕囚で散らされたイスラエルを、もう一度選んで、集め、ご自分の民とすること。そんな神の愛が輝くこと、それが「み名を聖とすること」なのです。人はただその愛を受け取るだけ。私たちが神のみ名を聖とすることとは真逆です。

【み名を汚す私たち】

私たちは繰り返し、神のみ名を汚しています。ルターは罪を「自分の内側に折れ曲がった心」と読みました。そんな心の、愛の足りない思いが、愛の足りない言葉が、愛の足りない行動が、神のみ名を汚します。私たちが、神のみ名を聖とするどころか、神のみ名を汚していることに気づくとき、私たちの心は痛みます。

【闇を照らす光が】

けれども、そこに主イエスの福音が響き渡ります。「父よ、み名が聖なるものとされますように!」。

そもそも私たちはみ名を汚すことができるのは、私たちが神の民だからです。神の民でない者は、神のみ名を汚すこともできないのです。そして、神はご自分の民を決して見捨てることがありません。放蕩息子のたとえのように、父は息子が罪深ければ、罪深いほど、なお愛を注ぐのです。注がないではいられないのです。必ずご自分の子をとりもどし、洗って、子としての装いをさせ、大宴会を催すのです。そのように神のみ名は聖なるものとされます。世界が神の愛の大きさを、あわれみの深さを、赦しの限りなさをほめたたえるのです。不思議なことです。私たちの汚れが、神のみ名を聖とするのです。私たちが胸を張るような功績ではなく。

そんな私たちは、神を喜びます。神ご自身を喜び、そんな神の民とされた互いを喜び合います。そんな喜びの教会は、神ご自身がみ名を聖とする器です。功績ではなく、汚れを赦され洗われたことによって。汚れを赦され続け、洗われ続けていることによって。京都信愛教会・天授ヶ岡教会・明野キリスト教会のそれぞれに高く掲げられた主イエスの十字架が指し示すとおりに。




(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/03/27

礼拝メッセージ「私たちの主」マタイの福音書6章5-15節 大頭眞一牧師 2026/03/15


今週から、聖書は「主の祈り」に入ります。主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださった、つまり神さまが望まれる祈りを聴き取りましょう。

【神さまの望み】

共に暮らしている人との会話は、その人との関係が表れます。祈りは神との会話。ですから例えば「家内安全商売繁盛」といった祈りばかりしているとしたら、その人と神さまとの関係はご利益(りやく)によって結ばれているということになります。あるいは困ったときだけ祈るとしたら、困っていないときには神さまと共に生きていない、ということになります。ですから主イエスは私たちに主の祈りを教えてくださいました。神さまがどのような関係を望んでおられるかを、教えてくださったのです。

【あなたがたの父】

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」(9a)は先立つ「偽善者たちのように祈るな」(5a)「異邦人のように祈るな」(7a)を受けています。前回聴いた箇所ですが、偽善者のように人に聞かせるために祈るな、また、異邦人のようにくどくど「ことば数が多いことで聞かれると思って」(7b)祈るな、と。私たちも「祈りが足りなかったら聞かれない」と勘違いすることがあります。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」(8bc)ことを忘れてしまうからです。

あなたがたの父! イエスが教えてくださった神さまの望まれる関係、いえすでに神さまが実現してくださっている関係は、父と子の関係。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8b)とあります。父は、子どものために本当に必要なものを、子どもが願ったからではなく、子どもが願う前に与えます。子どもにとって、良くないものなら、子どもがどんなに願っても与えません。

ですから、私たちは神さまがそんな父であることをこころとたましいに刻むのです。忘れがちな私たちですから、毎日、「天にましますわれらの父よ」と呼び掛けて、神さまが私たちの父であることを、たましいの習慣とするのです。

【天にましますわれらの父よ】

だから「天にましますわれらの父よ」は、主の祈りの最も大切な一言です。この一言があるから、私たちは、異邦人のように祈りません。神さまが父であることを知っているからです。もし主の祈りの続きが出て来なかったとしても、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができれば、それで十分。それほどの一言を主イエスは与えてくださいました。

けれども、私たちは思います。「自分は、心から、『天にましますわれらの父よ』と祈っているだろうか。ほんとうに、必要のすべてを祈らずとも与えてくださる父よ、と祈っているだろうか。」と。そして、自分の祈りが、異邦人のような、くどくどした言葉数の多い祈りであることに気づかされ、うなだれるのです。

【アバ、父よ】

しかし、ここによい知らせがあります。主イエスは十字架の前夜、ゲッセマネで「アバ、父よ」と祈りました。当時のユダヤ人たちは神に向かって「父よ」と祈ることはあったようですが、「アバ、父よ」と祈ったのは主イエスだけ。「アバ」は破裂音。まだ幼くて、発音がうまくできない子どもたちにも使える、父を表す言葉。「お父ちゃん」あたりになります。パウロも「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」(ローマ8:15-16)と記します。つまり、主イエスが人となり、十字架に架かって、復活したのは、私たちが「アバ、父よ」と回らぬ舌で、心から呼ぶことができるため。私たちが心から「天にましますわれらの父よ」と呼ぶことができるためだったのです。

ですから、私たちは、心から「天にましますわれらの父よ」と今日も祈ります。1月の新年聖会で藤本満先生が「ヤコブは自分の敗北をささげた」と語ってくださいました。私たちもまた、神を父として信頼できない敗北、異邦人のようにくどくど頼みごとをしてしまう敗北をささげます。神に対する私たちのそんな疎遠な思いを、担って十字架で処置してくださったからです。子としてくださったからです。今日もそんな喜びを私たちのこころとたましいに刻んでくださったからです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)