今日はこの後、信愛で葬儀が行われます。その備えがすでに整った中で、召された方と共に礼拝を捧げています。けれども、説教はいつものように主の祈り。召されたこの方が、毎日祈っていた、そして私がお訪ねしてはいっしょに祈った主の祈りから神さまの愛を聴き取らせていただきましょう。
【今日も、ご飯を】
今日は「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(11)。私たちが先ほど祈った主の祈りのことばでは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。「糧」と訳されている言葉は「パン」です。日本人にぴったりな言葉では「ご飯」。ですから「神さま、ご飯を今日も与えてください。飢えることがないようにしてください。」そういう祈り。
「なんだ、そんなことか。」とこの時代の私たちは思うかもしれません。私自身、食べ物がなくて困ったという経験はありません。けれども、この午後、私たちが葬ろうとしている仲間は昭和6年生まれ。終戦が昭和20年ですから、そのとき育ち盛りの14歳。ご本人はあまりつらかったことを話す方ではなかったのですが、あの時代のさまざまな困難を経験したことでしょう。ですから「神さま、ご飯を今日も与えてください。」というのは、ご本人にとって真剣な祈りであったにちがいないのです。
【私たちを生かす糧】
けれどもこの方の、そして私たちの祈りはそこにとどまりません。「パン」や「ご飯」が必要なのは、それらを食べることによって、私たちがエネルギーを得ることができるからです。だから生きることができるのです。では、「パン」や「ご飯」があれば、生きることができるのか。もちろんそうではありません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と語りました。もし食べ物がありあまるほどにあったとしても、神のことば、すなわち神の愛を知らなければほんとうの意味で生きることはできません。ですから、私たちが主の祈りを祈るとき、ただ「ご飯」だけではなく、私たちをほんとうに生かしてください。そのために必要なものを、愛を、与えてください、と願うのです。
【神の愛によって】
この私たちの仲間のおられた施設に、私は折々にお訪ねしました。たいていは、他の仲間といっしょに行きました。そのようなときにはたくさん讃美歌を歌ったものです。けれども、あるとき、私がひとりで行った。するとこのお方が自分のご生涯を語ってくださった。ご自分がどのようにキリストに出会ったかを語ってくださった。私たちはみな、それぞれ懸命に生きる。けれども、その中で、自分でも「これはどうなのか」と思うような、思いや、言葉や、行動が出てしまうことがある。そのことは私たちの内側のトゲとなり、痛みとなり、それがまた、私たちの思いや、言葉や、行動をゆがめていく。そんなことがない人は一人もいないと思うんです。この方もそうであった。けれども、あわれみ深い神は、この方をそのままにはして置かれなかった。そのままにして置くことがおできにならなかった。だから不思議なようにこの方を教会に導かれた。そしてイエス・キリストが出会ってくださった。
その時、この方と私は祈りました。感謝の祈りをささげた。キリストが私たちに出会ってくださったこと、私たちのゆがんだ思いや、言葉や、行動をご自分が引き受けてくださった。その原因を、その歪みそのものを、そして歪みが世界に与えてしまった影響のすべてを。そして、私たちがほんとうに人間らしく、神と人を愛して生きる、そんな自由へと解き放ってくださった。「あなたは生きろ。わたしがすべてを負ったから。十字架の上で、すでに。」と。この方も私も、その言葉を受け入れることができた。そして、どうかと思うような自分を受け入れ、癒され、生きることができるようになった、生きている、そのことを感謝したのでした。
【ルターのりんごの木】
この私たちの仲間は明るい方でした。その明るさは生まれつきのものであったのかもしれません。けれども、やはりそれだけではない。キリストを信じる者たちの明るさは、神を知らない生き方の暗さを知った上での明るさ。暗闇から光へと招き入れられた者の明るさ。そんな私たちは世の光として周りを照らす。宗教改革者ルターは「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」と言いました。私たちは地上の生涯を終えるその時まで、置かれた場所で、きちんと持ち場を守って、愛を注ぐ。そんな毎日が世界をほんの少しずつ変えていく。いのち果てるまで。いのち果てるとも。
