2026/08/09

礼拝メッセージ「喜び祝う主」マタイの福音書6章16-18節 大頭眞一牧師 2026/06/14


6章1節に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」とあります。続いて主イエスは三つの善行を語られました。施し(2-4)、祈り(5-15)、断食(16-18)。今日は断食について聴きます。

【善行?】

この個所に違和感を感じる方は少なくないと思います。私もそうでした。私たちが神に受け入れられたのは、善行によるのではなく、ただ神の恵みによるからです。けれども私たちは5章で、イエスが「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(5:20)とおっしゃったのを聴きました。それは、律法学者やパリサイ人たちよりもがんばって、律法を行うことではありません。神の子とされた私たちが父の愛を注がれ、注がれた愛があふれ出す、そんな存在にされていることの祝福でした。

ですから主イエスの言う善行は、行わなければならないのではなく、思わず行わずにはいられないのです。新しいいのちに生きる私たちにとって。

【施しと祈り】

施しもまた、神と共に生きる私たちの喜びの表現です。施したら自分が貧しくなるという不安からも、人の評価を気にする恐れからも解き放たれて、ただ神を喜び、神と共に世界の破れを繕うために、気づけば無我夢中で、自分と自分のお預かりしているものを差し出しているのです。

祈りもまた、神さまに自分の願いを叶えるように、しつこく命令することではありません。父なる神が、私たちのすべての必要、とりわけ神のいのちを与えてくださっていることを喜び、なお増し加えてくださることを願い、そんな互いを赦し合う共同体をなお建て上げてくださることを望み、すでに十字架の上で悪の力が打ち砕かれていることを忘れず、すでに今ここに始まっているその恵みを生きることを欲し、神のご支配の中で、神と共に働くことを乞うのです。多くの言葉によって神を動かそうとするのが祈りではありません。祈るうちに私たちが変えられていくのです。神の愛に抱きしめられ、神の愛に満たされ、神の愛によって世界の破れへと押し出されてゆくのです。

【断食とは】

では断食とは?よくある誤解は、霊性を鍛え、霊的な人になるために断食をするというもの。つまり、修行のようなイメージです。けれども旧約聖書を読めば、すぐに断食は悲しみと嘆きの表現であることがわかります。自分が神の心を痛めている罪人だと気づいて、心から悲しみ、嘆き、悔い改めることがその本質です。バテシバ事件の時のダビデが思い出されます。

私たちが神の心を痛めていることを悲しむとき、神さまは、その痛みにおいて私たちに出会ってくださいます。ほかのどこでよりも深く。よく申し上げる森有正の「人にはだれにも打ち明けることのできない心の一隅がある。そこにおいて神はあなたに会う」という意味の言葉の通りです。

私たちにお会いになったなら、神は私たちの痛みを負い、その原因となっている罪と罪の原因と罪の影響を負ってくださいます。そして世界の破れに愛を注ぐようにと押し出すのです。

【神に心を向けて】

ですから「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。」(16ab)は、まったく断食の意味がわかっていないのです。神に心を向けて癒されるのではなく、人に心を向けて敬虔な人だと称賛されようとするのです。「まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(16c)と、仮に称賛されたとしても、それだけのことです。

主イエスは、そうではなくて「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」(17)とおっしゃいます。これは祭りを喜び祝うための身づくろいを指しています。

すでに主イエスは来てくださり、私たちの罪と私たちを苦しめる罪の力、悪の力を滅ぼしてくださいました。祭りはすでに始まっています。だから、私たちは罪を悲しみながらも、主イエスが与えてくださった新しいいのちを喜び祝います。それは主イエスが私たちを喜び祝っていてくださるからです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2026/07/12

礼拝メッセージ「祈らせる主」マタイの福音書6章5-15節 大頭眞一牧師 2026/05/24


今日は、主イエスが教えてくださった主の祈りの最終回。ここまでを振り返ります。主の祈りはマタイ5章から7章の「山上の説教」の真ん中にあって、主の祈りこそ「山上の説教」の中心です。ですから今日は、「山上の説教」全体の中で主の祈りを読み、祈ります。

【幸いの宣言5章3-12節】

山上の説教は「八つの幸いの宣言」から始まります。「…な者は幸いです」と主イエスは、すでに私が幸いであることを宣言されました。最初の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(5:3)。「心の貧しい者」とは、「自分の中に、誇ることができる豊かさが何一つない者」。そういう人こそ「天の御国、つまり、神の国、神のご支配の下」で生きます。「神のご支配が実現し、そのご支配の中で、神と共に生き、神と共に働く」ことを喜ぶのです。だから私たちは主の祈りを祈ります。

天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

(神のご支配が実現し、その中で、神と共に生き、神と共に働かせてください)

我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。

(あなたがすべての必要、とりわけ神のいのちを与えてくださっている。増し加えたまえ。)

我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

(あなたの赦しによって、赦し合う共同体をなお建て上げてください。)

我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。

(あなたから私たちを遠ざける悪の力。あなたがすでに砕いてくださいました。その恵みを生きさせてください。)

国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。

(すでに、いまここに、もう。)

【さらにまされる義】

すでに「地の塩」(5:13)「世の光」(5:14)である私たち。「律法や預言者(神と共に歩く歩き方)」の成就(5:17)、「律法学者やパリサイ人にまされる義」(5:20)は、すでに私たちのうちにあります。主イエスの十字架と復活によって。私たちを抱きしめて離さない神の愛によって。そして、ますます律法の心である愛へと進ませます。進ませています。

だから主イエスは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:44)とおっしゃいます。私たちの愛は、神から注がれ、私たちからあふれ出します。「敵、すなわち『我らに罪をおかす者』も隣人なのだ。あなたと同じように、痛みを抱え、その痛みをどうしたらよいかわからないで困っている隣人なのだ。わたしの愛に癒されたあなたが、その愛を伝えてくれないか。注いでくれないか。彼が癒され、世界が癒されるために」と、主イエスは招いておられます。

【祈るときに起こること】

「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」(6:7a)「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(6:8b)とあります。私たちは思います。では、なぜ祈るのか。祈っても祈らなくても同じではないか、と。

私たちが祈る理由は、私たちの弱さにあります。主イエスの十字架と復活によって、罪の原因と罪そのものと罪の結果や影響から解き放たれている私たち。けれども、しばしばそのことを忘れしゃがみ込んでしまう。世界の破れを繕うために、それぞれの場所に置かれているのだけれども、手ごわい現実に、とても自分には無理だと立ち尽くしてしまう。古傷が痛んで、愛するべき家族を、隣人を愛せないで涙する。そんな私たちに、主イエスは主の祈りを教えてくださいました。それは、多くの祈りによって神を動かすためではなく、祈りのうちに、神の愛に抱きしめられ、神の愛に満たされ、神の愛によって立ち上がり、歩き出すためです。世界の破れへと押し出されていくためです。まさに主イエスご自身がゲッセマネで祈られたときに起こったこと。それが私たちにも起こるのです。


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2026/06/10

礼拝メッセージ「赦し、赦させる主」マタイの福音書6章12節 大頭眞一牧師 2026/05/03


今日も続いて主イエスが教えてくださった、主の祈りから聴きます。マタイでは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(6:12)。私たちが先ほど祈った主の祈りでは「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」

【負い目?罪?】

マタイでは「負い目」、同じ言葉を主の祈りでは「罪」と訳しています。同じような言葉ですが、「負い目」と「罪」には、やはり、ニュアンスのちがいがあります。負い目には、罪そのものだけではなく、罪がもたらした結果の影響の処置に関わるニュアンスが含まれています。私たちがだれかを傷つけるとします。その人が受けた傷はうずいて、その人を苦しめ、その人の生涯に変化を生じさせてしまいます。ときにはその人を駆り立てて、他の人を傷つけるという負の連鎖を引き起こしてしまいます。そんなとき私たちが、「これからは人を傷つけないように気をつけよう」と思うだけではじゅうぶんではありません。私たちは、相手に対して申し訳なさを感じます。精神的な負担、つまり負い目を感じるのです。負ってしまった負い目という重荷は、私たちを苦しめます。一度してしまったことは取り返しがつきません。ですから私たちは、自分では下ろすことができない重荷を負って苦しむのです。

【負い目の赦し】

だからそんな私たちに、主イエスは主の祈りを教えてくださいました。「私たちの負い目をお赦しください。」と。取り返しのつかない、なかったことにできない、私たちの負い目を赦すことができるのは神さまだけ。人にはできないことでも、神にはなんでもできるのです。けれども、同時に私たちは知っておかなければならないことがあります。それは私たちの負い目を赦すためには、神である主イエスが十字架に架けられなければならなかったこと。つまり、神であっても十字架抜きで、私たちをお救いになることはできないことです。そして、神が十字架に架かってくださったことによって、私たちの罪と罪から生じるすべての負い目は赦され、私たちはその重荷から解き放たれたのでした。

【我らが赦すごとく】

けれども、神さまが私たちを解き放つのは、私たちの犯した罪の負い目からだけではありません。私たちもまた、他の人の罪によって傷つけられます。その痛みにうめき、相手との関係が歪んでしまったことにうめき、その関係を修復することができずにうめくのです。もちろん、神さまは私たちと相手をそのままで放っておくことがおできになりません。私たちと相手の、たがいに愛し合えない苦しみをまた、ご自分が引き受けてくださいました。主イエスの十字架によって。私たちの負い目を、相手の負い目を、私たちと相手の間にある負い目をすべて。

私はクリスチャンになってから長い間、主の祈りの今日の箇所に違和感がありました。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と聞くと、まるで「私は相手を赦しました。だから私を赦してください。」と、まるで、相手を赦すことを交換条件に私が赦されるように思えたのです。

しかし実際は、この訳は適切ではありません。正しい順序はマタイの「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。つまり「神さま、私たちの罪とその負い目をお赦しください。(主イエスの十字架によって、すでにすべての罪と負い目を赦してくださったことを、私たちは知っています。だから)私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦すことができます。この喜びを感謝します。」と祈るのです。

【1万タラントのたとえ】

もう一か所、マタイ18章の21節から終わりまでを開きましょう。1万タラントは現在の数兆円。私たちの、そして全世界の、このあり得ない金額の負債が赦されました。主イエスの十字架によって。でももし、私たちがたがいに負い目を赦され、すでに解き放たれていることを忘れたかのように生きるなら、それは神さまの大きな悲しみになります。ペテロは、それがまだわかっていません。仲間を赦すことを願いつつも、それを自分にできる範囲で、と考えていたのです。けれども、やがて十字架、そして主イエスの復活と聖霊の注ぎによって、ペテロは気がつきました。自分が夢中になって、赦し、愛し、自分に罪を犯す人びとを、自分と同じ喜び、自分と同じ自由の中に入れようとしている自分に。私たちもまた。


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2026/05/07

礼拝メッセージ「今日与えてくださる主」マタイの福音書6章11節 大頭眞一牧師 2026/04/26


今日はこの後、信愛で葬儀が行われます。その備えがすでに整った中で、召された方と共に礼拝を捧げています。けれども、説教はいつものように主の祈り。召されたこの方が、毎日祈っていた、そして私がお訪ねしてはいっしょに祈った主の祈りから神さまの愛を聴き取らせていただきましょう。

【今日も、ご飯を】

今日は「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(11)。私たちが先ほど祈った主の祈りのことばでは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」です。「糧」と訳されている言葉は「パン」です。日本人にぴったりな言葉では「ご飯」。ですから「神さま、ご飯を今日も与えてください。飢えることがないようにしてください。」そういう祈り。

「なんだ、そんなことか。」とこの時代の私たちは思うかもしれません。私自身、食べ物がなくて困ったという経験はありません。けれども、この午後、私たちが葬ろうとしている仲間は昭和6年生まれ。終戦が昭和20年ですから、そのとき育ち盛りの14歳。ご本人はあまりつらかったことを話す方ではなかったのですが、あの時代のさまざまな困難を経験したことでしょう。ですから「神さま、ご飯を今日も与えてください。」というのは、ご本人にとって真剣な祈りであったにちがいないのです。

【私たちを生かす糧】

けれどもこの方の、そして私たちの祈りはそこにとどまりません。「パン」や「ご飯」が必要なのは、それらを食べることによって、私たちがエネルギーを得ることができるからです。だから生きることができるのです。では、「パン」や「ご飯」があれば、生きることができるのか。もちろんそうではありません。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と語りました。もし食べ物がありあまるほどにあったとしても、神のことば、すなわち神の愛を知らなければほんとうの意味で生きることはできません。ですから、私たちが主の祈りを祈るとき、ただ「ご飯」だけではなく、私たちをほんとうに生かしてください。そのために必要なものを、愛を、与えてください、と願うのです。

【神の愛によって】

この私たちの仲間のおられた施設に、私は折々にお訪ねしました。たいていは、他の仲間といっしょに行きました。そのようなときにはたくさん讃美歌を歌ったものです。けれども、あるとき、私がひとりで行った。するとこのお方が自分のご生涯を語ってくださった。ご自分がどのようにキリストに出会ったかを語ってくださった。私たちはみな、それぞれ懸命に生きる。けれども、その中で、自分でも「これはどうなのか」と思うような、思いや、言葉や、行動が出てしまうことがある。そのことは私たちの内側のトゲとなり、痛みとなり、それがまた、私たちの思いや、言葉や、行動をゆがめていく。そんなことがない人は一人もいないと思うんです。この方もそうであった。けれども、あわれみ深い神は、この方をそのままにはして置かれなかった。そのままにして置くことがおできにならなかった。だから不思議なようにこの方を教会に導かれた。そしてイエス・キリストが出会ってくださった。

その時、この方と私は祈りました。感謝の祈りをささげた。キリストが私たちに出会ってくださったこと、私たちのゆがんだ思いや、言葉や、行動をご自分が引き受けてくださった。その原因を、その歪みそのものを、そして歪みが世界に与えてしまった影響のすべてを。そして、私たちがほんとうに人間らしく、神と人を愛して生きる、そんな自由へと解き放ってくださった。「あなたは生きろ。わたしがすべてを負ったから。十字架の上で、すでに。」と。この方も私も、その言葉を受け入れることができた。そして、どうかと思うような自分を受け入れ、癒され、生きることができるようになった、生きている、そのことを感謝したのでした。

【ルターのりんごの木】

この私たちの仲間は明るい方でした。その明るさは生まれつきのものであったのかもしれません。けれども、やはりそれだけではない。キリストを信じる者たちの明るさは、神を知らない生き方の暗さを知った上での明るさ。暗闇から光へと招き入れられた者の明るさ。そんな私たちは世の光として周りを照らす。宗教改革者ルターは「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」と言いました。私たちは地上の生涯を終えるその時まで、置かれた場所で、きちんと持ち場を守って、愛を注ぐ。そんな毎日が世界をほんの少しずつ変えていく。いのち果てるまで。いのち果てるとも。


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2026/05/06

礼拝メッセージ「愛のみこころの主」マタイの福音書6章10節 大頭眞一牧師 2026/04/19


今日は主の祈りの中の「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(10b)から聴きます。私たちの祈る主の祈りの言葉では「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」です。

【神のみこころ】

神の「みこころ」とは神の「意志」。「みこころをなさせたまえ」は、「神さま、あなたのご意志をその通りに実現させてください」という祈り。これは簡単な祈りではありません。私たちは現実には、神のご意志ではなく自分の意志や願いが成ることを求めていることも多いからです。神の意志と自分の意志がぶつかり合うなら、自分自身の願いを捨てて、自分の思いではなく神の意志を優先させると祈るのです。

【神の愛のみこころ】

そんなふうに言うと、私たちは神の意志を優先するのはつらい自己犠牲のように感じてしまいます。けれどもほんとうはそうではありません。神の意志は愛の意志。私たちをどこまでも愛し抜く愛の意志なのです。少し前の8節にも「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」とありました。私たちに必要なものを、しかも私たち以上に知っておられる父のご意志。それは、善き意志です。私たちが自分のために願うことよりも善きことを与えるご意志。ですから、私たちの願いを捨てることは自己犠牲ではあり得ません。私たちのためなのです。私たちが手に「わら」を握りしめていたら、どうでしょう。父が善きものを与えようとしても受け取ることができません。手を開いて「わら」を捨てて、初めて、父からその善きものを受け取ることができるのです。そのとき私たちは自分がたいせつに思っていた「わら」よりも、はるかにすばらしいものをいただいたことを知るのです。

ただ、誤解がないようにと願います。私たちの願う健康や経済的な祝福、職場や学校での祝福、それらが価値のない「わら」のようなものだから捨ててしまえ、というのではありません。それらは必要なものであり、それぞれ価値のあるものです。けれども、父なる神は「わたしはあなたの必要を知っている。もちろんそれを満たしてあげよう。あなたが願うようにではないかもしれないが。そして、あなたを世界の破れの回復のために用いてあげよう。それがわたしの愛の意志なのだ」と語られるのです。

【ゲッセマネで】

神のみこころを祈ったのは、もちろん、だれよりも主イエス。十字架前夜、主は、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(26:39)と祈ります。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」は主イエスの正直な思い、願い。十字架の痛みや恥というよりも、父との断絶こそ、イエスがもっとも避けたいと願われたことでした。けれどもただちに「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と主イエスは続けました。父のみこころ、父の愛の意志が最善だと信頼し、その意志にご自分をゆだねてしまわれたのでした。実現した神のご意志は、ほんとうにすばらしいものでした。主イエスの復活と悪の力が滅ぼされたこと、私たちに主イエスの復活のいのちと聖霊が注がれ、愛に生きる者とされたこと、そして今や、私たちが神の子として、神の友として世界の愛の破れを繕う者たちとされたこと。

【地でも】

私たちの願いや思いのうちには、実現しないこともあります。病や死、また、仕事や学業、家庭において、願うことがかなわないことはだれにもあります。もし私たちが、それらの願いを固く握りしめて手放さないなら、私たちの毎日は失望に支配されることになります。けれども幸いなことに、私たちは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈ることができます。父の愛の意志が、私たちの失望をも貫いていることを知っているのです。主イエスの世界で一番つらい失望、絶望。父はその中に、世界で一番喜ばしい、復活のいのちを創り出してくださいました。私たちも自分たちの願いや思い、またそれらが叶わないという失望を軽く握って、父のご意志とぶつかるなら手放します。そして父の愛のご意志を受け取って、喜びの毎日を生きます。父が招き、主イエスが聖霊によって、私たちを励まし、強めてくださるから、そうすることができるのです。


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2026/04/12

礼拝メッセージ「御国の主」マタイの福音書6章10節 大頭眞一牧師 2026/03/29


今日は棕櫚の主日。いよいよ受難週です。主イエスの十字架と復活の福音に今日も聴き入ります。

【み国を来たらせたまえ】

主の祈りの六つの願い求めの二つ目は「御国が来ますように」(10a)。いつも祈る主の祈りの言葉では「み国を来たらせたまえ」です。「み国」は神の国。神の支配を来たらせてください、と祈るように主イエスは教えてくださいました。

私たちが「み国を来たらせたまえ」と祈るのは、特に、自分が具体的な悩み悲しみをかかえているとき、また、自然災害や戦争などの世界の様ざまな問題に直面するときでしょう。しかし、それらの問題の解決を祈りながらも、どこか私たちは、「実際には難しいだろうな、遠い将来までは」と、そんなあきらめのような思いを抱いているのではないでしょうか。

けれども、神の国はすでに来ています。主イエスの十字架と復活によって。マタイ4章には「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国(神の国)が近づいたから』と言われた。」(4:17)とあります。神の国は近づいた。手を伸ばせば届くところまで来た。主イエスがこの世界に来てくださったことによって。主イエスの降誕・十字架・復活によって。ですから私たちはもうすでに神の国に入れられています。つまり「み国を来たらせたまえ」は「すでにもたらされた神の国の中で私たちが生きることができるようにしてください。すでに神の国に生きていることを、私たちが心に刻んでいることができるようにしてください。」という祈りです。

【十字架によって】

すでに来ている神の国。すでに神の国に生きている私たち。それなのになぜ私たちは、まだ神の国が来ていないかのように感じてしまうのでしょうか。それは、私たちが「神の国が来れば、悩み悲しみや苦しみもすべて解決されて、喜びあふれる平和な世界が訪れるはず」だと思っているからでしょう。

けれども、神さまはこの世界を、今、ただちに、悩み悲しみや苦しみもすべて解決されて、喜びあふれる平和な世界にはなさいません。神の国、神の支配は、そのような支配ではないからです。神の支配は、主イエスによる支配。十字架の苦しみと死による支配です。主イエスは十字架で、私たちの罪とその原因とそのすべての結果・影響を引き受けてくださいました。そして「あなたには負うことができない、あなたを歪め、立てなくする重荷、罪を、わたしが引き受けた。罪とその原因と結果のすべてをわたしが引き受けた。だからあなたはまっすぐに立って、生きよ。わたしの愛によって、わたしの愛の中を、わたしと共に愛する者として生きよ!わたしと共に世界の愛の破れを繕うために生きよ!」と招いてくださっているのです。

キリストの支配は、苦しみつつ世界の苦しみを癒す支配。愛の支配。自分を与える支配。そんな支配であり、すでに私たちはそんな生き方を始めているのです。

先日、ふとAIに最近の大頭眞一の説教の特徴を訊ねてみました。AIをうのみにするのは危険ですので、上手に用いる必要があります。いくつかの特徴のうちの一つが「大頭眞一は、苦しみが、信仰の足りないせいとか、神の罰として語らない。苦しみは消えることよりも、苦しみの中で神と出会い、苦しみの中で神と共に生きることを強調する。そして苦しみをしばしばキリストの十字架に結び付ける。神がこの世界の私たちの苦しみの中に入り、苦しみつつ世界を回復させ、私たちも共に働くように招き、そして最後には世界の愛の支配を完成すると語る」でした。今日も同じことをお語りしました。みなさまに手渡しました。

【主語は神さま】

そうは言っても、と私たちは思います。苦しみながら神さまと共に働く、そんなことが私たちにできるだろうか、と。もちろん私たちにはできません。だから「み国を来たらせたまえ」なのです。アッバ、お父ちゃん、そんなこと私にはできません。アッバ、と神さまの胸でぐずるのです。私たちのアッバは、「そうだ。あなたにはできない。だから、わたしがそうさせてあげよう。あなたにいのちを注ぐことによって。あなたに愛を注ぐことによって。あなたではなく、わたしがそうしてあげよう」と、おっしゃっています。そして、ぎゅっと私たちを抱きしめてくださっています。


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