礼拝メッセージ 「主をもてなすアブラハム」 創世記18章1~15節
長谷川和雄師
私たちは大切なお客様を家にお迎える時、どのような備えと接待をするでしょうか。そして、神の臨在される礼拝に、どのような心で出席しているでしょうか。アブラハムには、子どもが与えられない焦燥感がありました。しかし、神の約束を待ち望むアブラハムのもとに、主は来て下さいました。
Ⅰ、主をもてなすアブラハム・・・割礼後のある日、天幕の入り口に座っていたアブラハムのもとに、3人の旅人が現れました。アブラハムの「わが主よ」(3)という言葉からも分かるように、彼は旅人を歓待し、へりくだって地にひれ伏し、彼らを迎えました。また、休息場を作り、足を洗う水や飲み水を用意し、上等で栄養価の高い食物をたくさん差し上げ、心からの十分なもてなしをしました(マタイ25:35-40、ヘブル13:2)。アブラハムは主の前に砕かれていましたので、「お気に召すなら」(3・新改訳)とへりくだった心で主を迎え、給仕しました。へりくだる者に恵みを賜う主は(Iペテロ5:5)、そのような彼に応えて下さいました。
Ⅱ、主に不可能なことはない・・・主はアブラハムに子どもを与えると約束され、17章では彼が主に試みられました。ここでは、アブラハムを「主」と呼んで仕えた妻サラ(Iペテロ3:5-6)が、約束の子を産むにふさわしい信仰の母となるために、試みを受けています。サラは90歳で、女の月のものはすでに止まり、子どもを産める歳ではありませんでした。そのため、「来年の今ごろ、あなたの妻サラに男の子が生まれている」と言われても、彼女には信じられず、不信仰の笑いがでてきました。サラはアブラハムたちから離れた天幕の中で、それも、心の中で笑ったのですが、主は遠く離れたところからも彼女の不信仰な笑いをご存知でした。
私たちも主から遠く離れているようですが、主はいつもそば近くにいて下さり、私たちの心の中までもご存知なのです。私たちは自分の潔白を証明するために悪戦苦闘し、確かな弁明をしても、理解してもらえないことが多くあります。また、自分でやめたいと思ってもやめられないこと、やりたいと努力しても達成できないことがあります。しかし、たとえ現実が困難なことであろうとも、私たちにとって不可能なことがあろうとも、主にとって解決できないこと、不可能なことはありません。ですから、主のすばらしいみ業を妨げる原因は、不信仰にあるのです。不信仰の結果、不可能だと決めつけたり、諦めたりして、主に頼らなくなったり、祈らなくなってしまうのです。私たちは主に祈り、結果を主に委ねましょう。主は私たちの思いや願い、計画などをはるかに超えたすばらしいことを成して下さるお方です。イエス様が十字架上で、イエス様を信じた強盗に天国への約束を与えて下さったように(ルカ23:43)、イエス様を信じるならば、私たちにも神の子どもとされる特権をお与え下さいます(ヨハネ1:12)。主を見上げず、現実ばかり見ていては、信仰は与えられません。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様をいつも私たちの前に置き、主の臨在を覚え、主から目を離さずにいるなら、主が私たちに信仰を与えて下さいます(ヘブル12:2)。神のみ前に歩む者、神の臨在を持ち運ぶ者として、み言葉を聴き、み言葉を信じて従い、神に祈り、主を覚えて礼拝し、神をこころから賛美し、神に献げ、神の最善を信じて待ち望むことが信仰です。私たちが主を信じて従うことこそ、主への最高の接待ではないでしょうか。5/12 母の日のプレゼント |
午後はCS教師会が行われました。
今週~来週の予定
■婦人祈祷会 火曜日(25日)10:30~
聖書:詩篇147篇3節
題:主のいやし
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:388、394
■聖書研究祈祷会 水曜日(26日)19:30~
聖書:詩篇10篇
題:世の不正に勝つ信仰
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:354、308、324
■主日礼拝 来週日曜日(30日)10:30~
招詞:ヘブル10章19~22節
交読文:23 詩篇66篇
聖書:創世記18章16-33節、19章23-29節
題:アブラハムの執り成し
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:2、206、196