2014/07/06

主日礼拝「いのちの冠を受ける者」

礼拝メッセージ 「いのちの冠を受ける者」 ヤコブ人への手紙1章12~15節

長谷川和雄師


「我らをこころみにあわせず」との主の祈りは、マタイとルカの福音書に記されています。新共同訳では、「誘惑に遭わせず」と訳されています。この試みと誘惑の違いについて考えましょう。

Ⅰ. 試みと試練…

1) 原語。
「試練」や「誘惑」と訳されている原語は同じですが、文章の意味や、前後関係や文脈などを踏まえ、「試み」や「誘惑」と訳します。それは、性格や本質が異なる言葉だからです。
今日の箇所では、「試練」(12)が、13節以降「誘惑」に変わり、使い分けられています。

2) 試練とは。
「試練」は、信仰を鍛練し、成長させるために神が与え、患難や困難、苦悩、また悲惨の形で臨みます。
しかし、「試練」は人に罪を犯させるように働かず、神に固い信頼を寄せて生きることを教えるため、神が与えるものです。時には、信仰者に物質的、精神的、信仰的に危機的状況を生じさせます。
「試練」を切り抜けると、霊的に強められ、豊かにされ、神の国の一員に相応しい者へと造り変えられ、神に在って生かされることの喜びが増し加えられます。ですから、2節で試練を喜べと記し、試練と幸いが結び付き、「いのちの冠」(12)の約束が記されているのです。このいのちとは、いのちそのもの、新しいいのちのことで、それが与えられると救いの確信に導かれます。

Ⅱ. 誘惑に負けるとは…

1) 試練の意味。試練により信仰がぐらつき、神への疑いや怒りを覚えることもあります。しかし、信仰者は神のみこころと新しいいのちを求める心があるので、時が来ると試練は神のみこころであり、神は私たちを離さず、信仰を練り、鍛え、神に近付く者に導きたいのだと悟り、信仰が強められます。
2) 誘惑に陥る。人間はその一方で神に逆らう肉的な側面があり、神からの自由を求め、自分が神になり、神を思い通りに支配しようとする欲望を持っています。この欲望が行動を起こし、神から離れることになります。「誘惑に陥る」(14・共同訳)姿は、この肉的側面で支配的な生き方です。
3) 誘惑に負ける。「誘惑」は、人の内に入り具体的欲望を刺激し、その欲望のままに走らせます。欲望は普段隠れていますが、表に現れ欲望がその人の意志となり、人生全体を支配し、誘惑に陥いるのです。その結果、人を神から離れさせ、み言葉を聞かせなくし、神なしで済ますことに喜びを見出します。それは初めのうちは成功しますが、大きな落とし穴なのです。

Ⅲ. 信仰者の選びとる道。

1) 欲望は誘惑に、誘惑は罪に、罪は死に至る鎖となります。誘惑に陥ると人を神から引き離し、いのちから離れ死に到達するのです。
2) 神は人を誘惑しません(13)。神は、人に試練を与え、人を鍛錬し、忍耐を養っても、人を誘惑し、ご自分から引き離しません。神は、人をご自分に引き寄せても、離れさせて死に至らせる誘惑をしません。
3) 聖書は、誘惑はサタンと人の内にある欲望が誘惑し、罪と死の原因となりますと記します。誘惑に陥るのは、人に原因と責任があります。試みや誘惑のない人生はなく、欲望を何一つ持たない人もいません。人の心は神の愛と誘惑の力が戦う戦場です。しかし、神の愛を知る者は欲望・誘惑・罪・死の連鎖の鎖を断ち切る事を求め、戦います。戦わずして霊的に生きられません。戦いの武器は祈りです。主の願いは人の滅びではなく、悪から守ることです(ヨハネ17:15)。罪深く弱い者であることを認め、神の助けとみ言葉、相応しい知恵を求めて祈り、戦います。誘惑に勝利する者を喜び(マタイ25:11)、「いのちの冠」を用意しておられます。



教会の各活動



聖餐式の様子
午後は、教会役員会が行われました。

今週~来週の予定

 

○婦人祈祷会 火曜日(7月8日)10:30~


聖書:ヤコブ書1章22-25節
題:み言葉に従う
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:19、316

 

○聖書研究祈祷会 水曜日(7月9日)19:30~


聖書:マルコによる福音書10章13-16節
題:幼子を祝福される主
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:104、474、259

 

○特別伝道礼拝 来週日曜日(7月13日)10:30~


招詞:詩篇103篇1-2節  交読文:7 詩篇23篇
聖書:コリント第二の手紙1章1-7節
題:慰めの神がほめたたえられますように
説教者:藤井圭子先生
新聖歌:21、201、344

 

○特別伝道集会 来週日曜日(7月13日)13:00~


聖書:ヨハネによる福音書14章1-7節
題:確かな希望に生かされて~尼僧からクリスチャンへ~
説教者:藤井圭子先生
新聖歌:209、233