2014/09/07

主日礼拝「貧富と信仰」

礼拝メッセージ 「貧富と信仰」 ヤコブの手紙2章5~7節

長谷川和雄師

台湾伝道旅行の壮行会
初代教会は、比較的貧しい人が多く、必然的に社会的地位は低く、知的な領域でも貧しい人々で構成されていました(Ⅰコリント1:26-28)。

Ⅰ. 神の選び…
教会に貧しい者が多かったのは偶然ではなく、神が貧しい者を選ばれたのです。「この世の貧しい人」(5)とは、この世の規準に従って貧しいと評価される人々です。財が少なく、内面的にも確立していないので、社会的に弱く、小さな存在です。神はなぜ救済の業を貧しい者から始めたのでしょうか。選民イスラエルは、他のどの民よりも少なく、貧弱なのに選ばれました(申命記7:6-7)。選ばれた側に、人間的な誇りや優越感などが入らないために、この世的な価値の高さが、神の選びの尺度となっていません。預言者イザヤが貧しい人々に良い知らせを伝えるために神によって選ばれ、神によって油を注がれました(イザヤ61:1)。他にも旧約聖書に、神が多くの貧しい者たちに関心を持ったことが記されています(詩篇9:18等)。また、主の言葉にも貧しい者への神の愛と関心を見ます(マタイ11:5)。

Ⅱ. 選びの理由…
神が貧しい者を選び御国を受け継ぐ者として下さり、神は人類全体が神の前には貧しい者であることを自覚することを求めています。貧しい者は、生きる意味を知り、ただ、神に期待し、神の恵みとして受け取ります。人間にとって最善な富は、この世の測りではなく、神が与えて下さる尺度によるのです。神は人間の弱さや貧しさをなくするのではなく、弱さと貧しさを正しく認識することを求めています。自分の貧しさを悟り、神の招きに応じたからこそ、御国を受け継ぐ者とされたのです。弱さや貧しさこそ神の富が宿る場所です。御前に立ち、信仰の賜物を与えられ、神の国を受け継ぎ、新しい命の約束を受けたのは、自分の強さや能力、良い業が御国建設に必要だからではありません。貧しい者に先ず御手を伸ばされたのは、貧しさに生きることへの神の期待があります。しかし、現実の教会は富める者にへつらい、貧しい者への差別的取り扱いや無礼な振る舞い、屈辱的なことが行われていました。富める者は、神が貧しい者を憐れむように憐れみ、神の恵みに感謝すべきでしたが、神の愛に応えず、貧しい者を軽んじ、神の恵みや愛や憐れみ、神の招きや選びを無にしていました。

Ⅲ. クリスチャン…
富める者が、貧しい者に容赦しない取立てなどを行い、「キリストの所有された者」(Ⅰコリント3:23)という尊い名のクリスチャンを冒涜し、苦しめ(6)、クリスチャンという名を汚していました(7、使徒11:26)。そんな中でも貧しい者たちは辱めに耐え、信仰を貫きました。何と尊いことでしょうか。ここで富める者が非難されていますが、その富ゆえに神の選びからもれるとか、富める者を苦しめることを認めていません。神は、神が貧しい者を顧みている事実を知り、神の顧みを必要とする弱さや貧しさを、富める者が認め、神の前に謙ることを願っています。教会は、富める者の言動の過ちを明らかにする勇気を持ちましょう。お互いに神の前には貧しい存在であり、神の恵みがなければ真の富は持てないことを、世に示すことが教会の責任です。クリスチャンとして、人間としての価値をどこに置くのかが問われています。この世ではクリスチャン故に辱しめを受けることもあるでしょう。しかし、この名には終末的な希望があり、真の富が約束されていることを、主にあって確信し、証しするクリスチャンでありましょう。



教会の各活動



午後は、教会役員会が行われました。


今週~来週の予定


○婦人祈祷会 火曜日(9月9日)10:30~


聖書:ピリピ書4章13節
題:どんなことでもさせて下さる
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:388、448



○聖書研究祈祷会 水曜日(9月10日)19:30~


聖書:詩篇90篇14節
題:すべての日に
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:267、338、340



○主日礼拝 来週日曜日(9月14日)10:30~


招詞:詩篇46篇10節
交読文:49  イザヤ書40章
聖書:詩篇90篇1-17節
題:己が日を数えよ
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:22、229、365