礼拝メッセージ 「神に受け入れられる祈り」 ルカによる福音書18章9~14節
長谷川ひさい師有志の証 |
Ⅰ. パリサイ人の祈り…
パリサイ人は律法を厳重に実行する熱心な信仰者であり、ユダヤの指導者でしたが、自分の義を主張しました。彼らが立ったまま、心の中で祈る祈りも、主はご存知でした(11-12)。礼拝堂に臨在される主は、全てをご存知です。なんと厳粛なことでしょう。パリサイ人の祈りは、形が整った感謝の祈りのようですが、内容は他人と比較して自分を正しいとする、高慢な祈りでした。神の御前で、神の光によって自分を点検しないで、自分の道徳生活の正しさ、宗教生活のすばらしさを訴えているのです(11-12)。これは自己宣伝の祈りであり、神には届きません。それは体を祭壇に近づけただけで、心を神に向けてはいないからです。ですから、神の前に出る者として、自分の心がふさわしくないことが分からなかったのです。祈りは神に心を開いて、「神よ、私の本当の姿を教えて下さい」と祈るとき、神は、み言葉を通して、私たちに本当の姿を教えて下さいます。
Ⅱ. 取税人の祈り…
取税人はローマ政府の依頼で、ユダヤの税金を取り立てましたが、不正が多く民の怒りと軽蔑の的でした。そのひとりの取税人が遠く離れてたち、目を天に向けようともしないで祈りました。現在、私たちは目を閉じて、頭を下げ、手を組んで祈りますが、当時は目を天に向けて祈る習慣がありました。しかし、この取税人は目を天に向けることもできず、良心の傷みに耐えかねて頭を垂れ、胸をうちながら神の前に祈りました。その心は自分を正しいとしませんでした。体が祭壇から遠く離れていても、心が神にしっかりと向けられていました。それゆえ、自分がどんなに神の憐れみを必要とする人間であるかを悟り、砕かれた心で、真剣な祈りをささげることができたのです。
Ⅲ. 神に受け入れられる祈り…
心の中を見抜いておられた主は、「神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった」(14)と言われました。神の目にも、主イエスの目にも不義なる取税人が悔い改める姿が美しく見えました。パリサイ人が自分を誇っている姿は、醜く見えたのです。私たちはどうでしょう。パリサイ人のように、修練や修養によって何かができたこと、過去に行えた実績などを誇り、自分が正しい者であると自分を自分で認め、評価して、人を見下してはいないでしょうか。神は「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)と言っています。私たちはこの取税人のように、神の光の中で自己点検させていただき、自分の醜さ、罪深さ、弱さを心から認めさせていただきましょう。そして、神の御前に心を開き、口と心をひとつにして、「神さま、罪人の私をあわれんで下さい」(13・新改訳)と告白し、祈る者とならせていただき、主に罪を赦していただいて、ここから遣わされて行くなら何と幸いでしょうか。日々、私たちひとりひとりが主の十字架の血潮を崇め、神の憐れみなくしては、主の血潮の恵みがなくては歩めない者であることを覚え、日々の生活の中で、神に喜んで受け入れていただける、心砕かれた祈りをささげてゆきたいと願わされています。
教会の各活動
秋のチャペルコンサート(杉山みぎわ先生) |
今週~来週の予定
○婦人祈祷会 火曜日(9月23日)10:30~
※祝日のため休会します
○聖書研究祈祷会 水曜日(9月24日)19:30~
聖書:マルコによる福音書12章13-17節
題:神のものは神に
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:42、393、396
○主日礼拝 来週日曜日(9月28日)10:30~
招詞:ヨハネによる福音書15章9-11節
交読文:56 ローマ書12章
聖書:ヤコブ書2章8-13節
題:尊いみ言葉
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:88、182、229