礼拝メッセージ「生きた信仰」ヤコブの手紙2章14~17節
長谷川和雄師
Ⅰ、神の救いの御業を信じる信仰…
罪人が罪から救われ、神との交わりを回復される道は、ただ贖いの御業を信じることによって救われる道を、神が備えて下さいました。信仰により聖霊が与えられているので善き行いが出来るのです(アウグスブルク信仰告白第20条)。救いは神の憐れみのゆえに与えられる、無代価の恵みであり、神のみこころを行う者が御国に加えられるのです(マタイ7:21)。また、ガラテヤ書では愛の実践が伴った信仰こそが、大切なことですと記しています(5:6)。救いに至る信仰は、単なる知識ではなく、愛の実践が伴う全人格的なあり方であり、具体的な表れが伴い、神を心から褒めたたえる動的なものです。
Ⅱ、あなたの信仰はどのような信仰か…
「自分には信仰がある」(14)という人に、「生きた信仰とはどのようなものか」、「真に信仰と呼ばれるに値するものか」、「神が喜ぶ信仰か」を問いかけています。また、その信仰は神に支えられ、神への応答、賛美と服従、献身のしるしとしての信仰による善行が伴い、兄弟愛の実践が成されます。信仰の実である行いは、神のものとされた者に命じられ、神が受け入れて下さる業です。献げものは、神が救いと、全ての善きものを与えて下さった神の恵みに感謝して献げるものであり、神への服従と献身を表すしるしです。ですから、献げる心が問われるのです。
Ⅲ、愛の行為の伴った信仰…
具体的な例を15-16節に記します。ここでは、肉体的な飢餓で苦しんでいる人が礼拝に出席していて、その人を助けることが出来る信仰者が、具体的な必要に応えないで、言葉だけで慰め、「安心して行きなさい」(16)とユダヤ人の別れの挨拶をしたのです。これは、主が語りかけた言葉で、「平安があるように」という思いを込めた言葉であり、「安心して行きなさい」という言葉でした(ルカ7:50、8:48)。主は人の苦しみを解決した後に、その言葉を語りました。ですから、その言葉にふさわしい愛の行いが伴わない信仰は、死んだ信仰ですと記します。具体的な憐みや愛の行為を伴わないような信仰は死んだ信仰であり、そのような信仰しか持たない教会も、死んだ教会と言われても仕方がありません。私たちの教会はどうでしょうか。神が私たちにして下さつたことを、今度は私たちが私たちの兄弟にしなければならない責任を、信仰者は持っています。クリスチャンの交わりを豊かにするものは、私たちの人間的で不安定な思いや感情ではありません。クリスチャンの交わりを豊かにするものは、神が主によってなして下さり、示して下さった憐みや愛こそが、互いの関係を親しいものにするのです。それは同時に、教会のこの世に対する関わり方とあり方を決定します。そして、聖書が指し示す方向にいくらかでも歩もうとする時に、教会に生きた信仰が与えられるのです。私たちの教会にも、そのことが主によって要請されているのです。
教会の各活動
聖餐にて |
今週~来週の予定
○婦人祈祷会 火曜日(10月7日)10:30~
聖書:箴言12章22節
題:偽りのくちびる説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:202、390
○京都聖会準備祈祷会 水曜日(8日)19:30~
聖書:ルカによる福音書22章54-62節
題:イエスのまなざし説教者:吉田美穂師
新聖歌:2、98、221
○主日礼拝 来週日曜日(10月12日)10:30~
招詞:ヘブル書10章19-22節
交読文:34 詩篇108篇
聖書:ヤコブ書2章18-19節
題:信仰を見せて下さい説教者:長谷川和雄師
新聖歌:258、282、275