2015/11/08

主日礼拝「神の戒めに生きる」

礼拝メッセージ「神の戒めに生きる」ヨハネの第一の手紙3章19~24節


長谷川和雄師


児童祝福式の様子
私たちが神の子とされたのは、神の一方的な恵みである神の愛を豊かに受けたからなのです(3:1)。私たちは神の子とされたのだから、「兄弟を愛せよ」との戒めを守れるのです。

Ⅰ. 心を安らかに…
1) 「神のみまえに心を安んじていよう」(19)とありますが、神のみ前での確信や平安は、兄弟を愛するとか、その他のどんな業や功績によるのではありません。自分の心を正直に見つめて愛せないことが分かったら、「愛せません、愛したいのです。愛を与えてください」と、全てをご存知であっても愛してくださる神を信じて求めるとき、神の愛と平安を与えられます(ローマ5:1)。
2) 私たちがみ言葉や、御霊によって罪の指摘を受けても罪の自覚が生じないなら、それは神から離れて歩み、神に対して心を閉ざしているからです。しかし、罪の咎めを感じ、自分の愛の無さを知る時、主の十字架の愛がみえてきます。主の十字架を仰いで神に近付くならば、神は赦してくださり、罪の赦しを与えてくださいます(1ヨハネ1:8-9)。それゆえ、私たちは「神に対して確信を持つことができる」(21)のです。神の愛はなんと偉大なことでしょうか。

Ⅱ. 大胆に神に近付く…
1) 自分の心の責めが無くなれば、大胆に神の御前に出て、何でも包み隠さず、心にあるままを神の御前で祈ることができます。また、私たちは神の憐れみを受け、恵みをいただき、はばかることなく、神の恵みの御座に近付けるのです(ヘブル4:16)。
2) 神の平安があるからこそ、神の前に出て主の名によって何でも祈ることができ、神は私たちの祈りを受け入れてくださり、求めるものを与えてくださるのです。しかし、祈ったことが必ずきかれるというわけでもありません。私たちの祈りが主によって応えていただけるというのは、その祈りが主のみこころと一致する祈りと導かれるからです(ヨハネ15:7)。私たちは心にあるままを神に祈ることができます。しかし、祈っているうちに、神のみこころが示されてくるのです。その示された神のみこころを、受け入れて祈ることが必要です。主も「この杯をわたしから取りのけてください」と、ありのままを祈られました。しかし、主は「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と(ルカ22:42)、神の栄光を求め、神の栄光のために、全てを神のみ手に委ね、十字架の死に至るまで従順に従われたのです。

Ⅲ. 主を信じ、互いに愛し合うこと…
神の戒めに生きることを、神は喜んでくださいますが、その神の戒めとはどんなことでしょうか。
1) 御名を信じることです(23)。それは、主の御名、主の人格、主の全ての働きを信じ、主が与えてくださる信仰によって(使徒3:16)、主に自分の身を全て任せ、頼ることです(ヨハネ1:12、1ヨハネ5:13)。
2) 互いに愛し合うことです(23)。その愛は私たちの内にはありません。私たちが互いに愛し合うことができるのは、神がまず私たちを愛し、赦してくださったという事実があるからです。私たちは、その神の愛を知り、体験する時、神の愛によって愛し合うことができるのです。互いに愛し合うことは、神の親しき交わりがあることの証です(ヨハネ13:34-35)。ですから、主の御名を信じることが、互いに愛し合うことの原動力であり、互いに愛し合うことが主の御名を証しすることになります。主と親しく交わる時、聖霊によって愛の実を豊かに結ぶようになります(24、ガラテヤ5:22-26)。日々、主と親しく交わり、主に全てを委ね、み言葉に生きる者とならせていただきましょう。


教会の各活動


教会ファミリーコンサートの様子
午後は、教会ファミリーコンサートが行われました。


今週~来週の予定

○婦人祈祷会 火曜日(11月10日)10:30~12:00


聖書:創世記12章1節
題:アブラハムの信仰
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:38、354



○聖書研究祈祷会 水曜日(11月11日)19:30~21:00


聖書:使徒行伝2章22-36節
題:イエスこそ主キリストです
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:237、272、354



○主日歓迎礼拝 来週日曜日(15日)10:30~12:00


招詞:ヘブル書4章14-16節
交読文:34  詩篇108篇
聖書:ヨハネによる福音書6章28-29節
題:信じることが神のわざ
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:264、282、275