2015/11/15

主日歓迎礼拝「信じることが神のわざ」

礼拝メッセージ「信じることが神のわざ」ヨハネによる福音書6章28~29節


長谷川ひさい師


日本人は、宗教は何かやることだと考える傾向があります。「ただ信じればよい」より、何か行って受けるといった方が分かりやすいのではないでしょうか。ユダヤ人も同じような考えがあったので、「神のわざを行うために…何をしたらよいでしょうか」(28)と訪ねました。この「神のわざ」は複数形で、罪を赦され、救われ、永遠の命を得るためには、色々な業をしなければならないと考えていたのです。しかし、主の答えは単数形の「神のわざ」でした。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(29)と言いました。ヨハネ伝には「信じる」との言葉が約百回出るほど「信じる」大切さを強調しています。「信じる」とは、根も葉もないことをただ信じればよいと言うことではなく、「信じる」ことは、その事実の正しい認識から始まります。その事実とは、「罪、死、主の十字架と復活」です。

Ⅰ. 罪の事実…
罪という言葉はいやな響きがあり、いいものではありません。見ても見ぬ振りし、避けたいものです。どんなに罪に蓋をしても罪は罪です。主が宮で教えておられた時、姦淫の現場で捕らえられた女性を、律法学者やパリサイ人が主の前に連れて来て、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」(ヨハネ8:5)と、主を告発するための質問をしました。しかし、主は彼らの思いを見抜き、黙って地面に何かを書いていましたが、質問し続けたので主は、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(同8:7)と答えました。すると年寄りから始めて民が去り誰もいなくなりました。このことは、誰でも「私には罪はない」と言えないということです。もし、この罪から自分を救えるなら、救い主を信じる必要はありません。主を信じる信仰は、罪という事実を正しく認識することから始まります。

Ⅱ. 死の事実…
「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とありますが、罪の結果は、肉知的、霊的、永遠的な死です。人は誰も死に対する解決を持っていません。死は観念ではなく、厳然たる事実です。もし、死なないと言う人がいれば、その人は死の解決者である主を信じる必要がありません。救い主を信じる信仰は、死という事実を正しく認識する必要があります。

Ⅲ. 主の十字架と復活の事実…
主の十字架と復活の事実は、人間の罪と死の解決に必要なことです。その意味で、主の十字架と復活は事実でなければなりません。このことは何千年も前から預言されていたことが成就した、多くの目撃者によって記録された歴史的な事実です。私たちの信仰は、自分の感情や願望によって立っているのでも、都合よく作り上げたものでもありません。神が主を通して私たちのためにしてくださった、十字架と復活に基づく贖いの事実だということを、しっかりと知ることが大切です。「永遠の命とは…神…と…キリストとを知ること」(ヨハネ17:3)ですが、「知る」は信じると同意であり、正しく事実を知ることは信じることにつながります。また、「信じる」は「委ねる」とも訳され、信仰は頭だけの認識ではなく、主ご自身の人格に自分自身の全てを委ねてゆく姿勢が求められます。また「信じる」は「受け入れた」(ヨハネ1:12)ということです。外食を信じて食べるのに、命まで捨てて愛してくださった救い主を心に受け入れないとはなんと悲しいことでしょうか。主の十字架と復活を信じられないなら、「信仰を与えてください」と祈りましょう。信仰を与えてくださるのが神の業なのです。



教会の各活動


会堂掃除の様子
午後は、壮年会・婦人会・青年会合同での会堂掃除、CS教師会が行われました。


今週~来週の予定

○婦人祈祷会 火曜日(11月17日)10:30~12:00


聖書:詩篇40篇12節
題:正直な心
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:190、266


○聖書研究祈祷会 水曜日(11月18日)19:30~21:00


聖書:ルカによる福音書11章13節
題:求めて来る者に
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:195、208、408


○主日礼拝 来週日曜日(22日)10:30~12:00


招詞:ローマ書12章1-2節
交読文:19  詩篇51篇
聖書:Ⅰヨハネ書4章1-6節
題:真理の霊と惑わす霊
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:21、458、460