礼拝メッセージ「神のみこころは聖くなること」テサロニケへの第一の手紙4章1~8節
長谷川和雄師
患難の中、恵みの内に成長し、まだ若く欠けがあるテサロニケ教会の群を頭ごなしに叱責しないで、彼らの信仰生活を全面的に容認し、ますます信仰にあふれ、神の臨在を覚え、現状に満足することなく、神を喜ばす生活を勧めます(1、ガラテヤ1:10)。相手を認めない叱責は、落胆と反発を招きますが、受け入れてからする忠告は、人を励まし矯正に導きます。この意味でも使徒は、伝道者であると共に最良の牧会者、教育者でした。
Ⅰ. きよい生活
神は、私たちを「聖徒として召」(1コリ1:2)し、召した聖徒を、「御子のかたちに似たもの」(ロマ8:29)にするために、クリスチャン生活の全てに聖化を勧めました。アテネ市民は、常に目新しい話題を渇望していましたが(使徒17:20)、使徒の勧めは新しい戒めではなく、すでに主の命令として彼らに教えられたものでした(2)。新しい教えは進歩的だと考えられ、色々な神学が次々と登場し、道徳においても状況倫理的発想が教会内にも浸透しています。しかし、クリスチャンが立つべき土台は、変らない主の教えと命令です。
Ⅱ. 聖潔への道
テサロニケ教会は異教社会にあり、クリスチャンになる前の古い性質、融通性や曖昧さ、形にこだわる習慣的な罪に、自覚的に取り組む必要がありました。一度覚えた罪の感覚は、信仰的に低迷すると再びよみがえります。ギリシヤ世界では、性的乱れを避ける罪として捉えない道徳感覚あり、「不品行」(3・性的なあらゆる形の罪)を教会内に持ち込む危険がありました。不品行を避けるだけでなく、「清く尊く保」(4)つ、積極的な勧めに従うことが大切です(1コリ6:18)。私たちの体は禁欲や放縦の対象ではなく、聖潔の対象とすべきです。神を畏れない人は、人間の欲望を全面肯定することこそ(5)、自然で人間本来のあるべき姿であり、活力と魅力に溢れていますと言います。
Ⅲ. 聖く生きる3つの理由
- 神のさばきがある(6)。不品行の罪が満足や充実感を与えても、その人は神の正しいさばきの前に最終的に必ず引き出されることを覚えるべきです。不品行の罪は相手あってのことなので、相手や家族、社会に連鎖的に多大な不幸をもたらします。聖く、責められない実生活は、神の前での究極的評価を考えることなしにはあり得ません。
- 聖潔への召し。神の民として召されたのは、清い生活をする目的のために召されたのです(7)。罪深い人間の親でも、子どもが清く歩めるようにと願うように、完全に聖い神は、神の子どもとされた者の歩みが聖さに歩むことを望んでいます(2ペテ3:11)。
- 聖霊の聖めのわざの約束。神は、罪に汚れた人間をむち打ち、聖く歩めと強要する方ではありません。聖い歩みを命令すると共に、実現を可能にする力を私たちに与えられます(8)。不品行、汚れ、好色などの肉の行いを生み出す者が、聖霊に満たされて歩む時、豊かな御霊の実を結ぶ者へと聖められ(ガラ5:22-23)、変えられていくのです。神を喜ばせる良い行いがないにもかかわらず、主の十字架上の贖いのゆえに無条件で罪が赦されるように、何一つ聖い思いや行いができない無力な私たちに、神は聖霊によって聖めの力を常に与え続けます。でも、自分の弱さに甘えて罪を犯し、聖い歩みを軽視することは神に対する最大の侮りであり、聖霊なる神を拒絶することです(8、エペ4:30、マタ12:32)。み言葉を軽んじ、聖霊を拒んで、内外に光を失うことのないように、いつも十字架の福音に生かされ、神の臨在を覚えて歩みましょう。
教会の各活動
午後は、教会役員会が行われました。
今週~来週の予定
○婦人祈祷会 火曜日(7月5日)10:30~12:00
※教区婦人部修養会のため休会します
○聖書研究祈祷会 水曜日(7月6日)19:30~21:00
聖書:ヤコブ書5章15節
題:神様の約束に立って
説教者:長谷川ひさい師
新聖歌:195、251、282
○主日礼拝 来週日曜日(7月10日)10:30~12:00
招詞:ヨハネによる福音書15章9-11節
交読文:36 詩篇116篇
聖書:第1テサロニケ書4章9-12節
題:落ち着いた生活
説教者:長谷川和雄師
新聖歌:27、104、385