2022/05/01

主日礼拝 2022/05/01 「後に来られる神(第一主日)」

      

礼拝メッセージ「後に来られる神(第一主日)」

  • 聖書:ヨハネの福音書1章19~28節
  • 大頭眞一師

(礼拝プログラムはこのメッセージの後、または「続きを表示する」の中に記されています)




今日もヨハネの福音書の続きから聴きます。連続講解説教ではありますが、この箇所にはここでなくては聴くことができない、たいせつなメッセージが込められています。耳を傾けましょう。

【わたしは〇〇ではない】
バプテスマのヨハネに、エルサレムから遣わされて来た祭司たちとレビ人たちが「あなたはどなたですか」(19)と訊ねます。ただ、この訳はていねいすぎるように思えます。彼らはヨハネがバプテスマを授けていることを問題にしているのですから「お前はいったい何様のつもりだ。なんの権威があってバプテスマを授けているのか」と責めたのでした。
ヨハネの返答は「わたしは〇〇ではない」でした。自分はキリストではない、エリヤではない、あの預言者ではない、と言ったのです。あの預言者、とは申命記に「あなたの神、【主】はあなた(イスラエル)のうちから、あなたの同胞の中から、私(モーセ)のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申18:15)とある人。イスラエルはこの預言者の到来を待ち望んでいました。けれどもヨハネは「わたしではない」と言います。「キリストではない」のは当然としても、ヨハネが「あの預言者でも、エリヤでもない」と言ったのは不思議です。特にエリヤ。マルコ9章などを見ると、主イエスはヨハネがエリヤだと言っているのにもかかわらず。バプテスマのヨハネが「わたしはエリヤではない」と言い続けるには、もちろん理由があります。その理由は、ヨハネがついに「私は〇〇です」と言ったとき明らかになります。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」(23)。ヨハネは自分はだれでもなく「声」だと言うのです。声には姿はありません。ただ、思いを届けるだけです。ヨハネは「私はただの声だ。だれであるかは問題ではない。」と「ためらうことなく告白し」(20)たのでした。私たちも「私は○○です」と言い張るときにさまざまなトラブルを起こします。自分の立場や役職、実績、体験などに固執することが、神さまからゆだねられている役割をさまたげることがないようにと願います。今、ここで、神さまと共に生きるために。

【声が語るもの】
「声」であるヨハネが語ったのは「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。」(26)でした。後に来られる神、まことの救い主である主イエスを指し示したのでした。
ヨハネが自分のことを「エリヤ」だなどと語っていたなら、人びとの注目はヨハネに集まってしまったことでしょう。そうなるとキリストを証しするという役割を、ヨハネは果たせなくなってしまいます。ところがヨハネは「私はただの声だ。何者でもない」と告白することによって、神さまからゆだねられた役割を果たすことができました。ヨハネの人生が最高の意味に満ちたものとなったのです、不思議なことです。人が自分の人生を握りしめようとするとき、握った手から意味がこぼれ落ちていきます。けれども、軽く握って、その手で主イエスを指し示すときに、私たちの人生は神さまに用いられていきます。人生が意味を持つのです。神さまの願いである世界の回復のお役に立つことができるのです。
「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」(27)は、単なる謙遜だと読んではならないところ。主イエスは、ほんとうに私たちをはるかに超えたお方。次元がちがうお方。愛を循環させることが出来ない私たちをほうっておくことができないあわれみにおいて。十字架でご自分を与える激しい愛において。世界を回復させるという壮大な望みにおいて。だから謙遜にふるまわなければ神さまの不興を買う、といったことではないのです。
私は主イエスのことを思うときにターン・オーバーという言葉が頭に浮かんでくることがあります。ひっくり返すという意味ですが、目玉焼きにもターン・オーバーというのがあります。両面焼きです。ターン・オーバーすると上が下に、下が上にさかさまになります。そのように主イエスを受け入れた私たちはひっくり返ってしまっています。もはや主イエスの願いが私たちの願いとなっているのです。履き物のひもを解くのは当時の奴隷の仕事。罰を恐れていやいやしていた奴隷たちもいたでしょう。けれども主イエスの奴隷はターン・オーバーした奴隷。喜びにあふれつつ、自ら進んで、主イエスを指し示す自由なしもべです。



 礼拝プログラム


■教会学校10:00-10:20

  • 「見ないで信じる信仰」ヨハネの福音書20:24~29

■主日礼拝10:30-11:30

  • 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
  • 招詞:Ⅰコリント15章20節
  • 賛美:9①②④
  • 交読文:5 (口語詩篇第19篇 新聖歌P832)
  • 祈祷:
  • 主の祈り:新聖歌 P.826
  • 賛美:354①②
  • 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
  • 聖書:ヨハネの福音書1章19~28節(新約 P.176)
  • 説教:「後に来られる神(第一主日)」大頭眞一牧師
  • 聖餐:
  • 祈祷:
  • 賛美献金:428①②③
  • 感謝祈祷:
  • 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63、詞は裏面下に記載)
  • 祝祷:大頭牧師
  • 報告:司会者