主イエスが水の上を歩いた奇跡の翌日。人びとは主イエスを追って、舟で湖を渡りました。それは主イエスからパンをもらいたかったから。それも一回や二回ではありません。「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」(31)とあります。出エジプトの後、神さまは荒野で40年間、毎日マナを与えてくださいました。人びとは「そのように自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と、そう願ったのでした。
【いのちのパンである神】
主イエスの答えは「ノー」でした。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」(27)と言ったのです。「永遠のいのちに至る食べ物」とはイエス。小聖書と呼ばれるヨハネ3章16節には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とありました。ご自分を与え、しかも十字架の上で与えてくださった神が、「さあ、わたしのいのちを受け取れ」と招いてくださったのです。
こうして礼拝に集っておられるみなさんは、「永遠のいのちに至る食べ物」であるイエスを受け取った方がたです。イエスといういのちのパンを食べたのです。そんなたがいを喜びたいと思います。私たちに食べられるために、喜んでご自分を与えてくださったイエスを想いながら。
【奇跡ではなくしるしを】
ヨハネは七つの「しるし」を記していると前にも申し上げました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26c)とあります。人びとが見たのは、イエスがたくさんの人びとにパンを食べさせる奇跡。けれどもイエスは、人びとが奇跡は見たが「しるし」は見ていないというのです。「奇跡」とは、常識では起こると考えられない不思議な出来事。けれども「しるし」はちがいます。ヨハネが「しるし」と呼ぶのは、主イエスが「神が遣わした者」(29b)、神から遣わされ、十字架に架かって、復活した神であるという信仰をもたらすもの。「奇跡」は、ご自分を与える神の愛の光で見るときに「しるし」となるのです。
【律法ではなくいのちを】
イエスが永遠のいのちを語られたとき、人びとは「「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」28bと訊ねました。当時の多くの人びとは律法を誤解していました。律法を守れば救われ、破れば罰せられる。そういうふうに考えていたのです。けれども実際は、律法はそうではありません。まず出エジプト、そして律法。律法を知らないで、救い出されたイスラエル。そのイスラエルに神さまが「わたしといっしょに歩こう。わたしといっしょに愛し合おう。その歩きかた、愛し合いかたを、教えてあげよう」と、与えてくださったのでした。
それがわからない人びとが「何をすべきでしょうか。」28bと訊ねたのは当然でした。何かをすることによって神の承認を得ようとするのです。それは私たちも同じです。どこかで「自分はもっと何かをすべきではないのか」と自分を責める思いが起こってきます。とくに失望の朝、落胆の夜には。
ところがそこへイエスの声が響きます。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)と。「信じること」については、いつもお語りしている通りです。私たちは自分で信じようとしても、信じることはできません。信仰そのものが神さまからの贈り物なのです。ですから、ここで主イエスは「今、あなたがたに信仰を贈る。それはもうあなたがたの中に起こっている。わたしを飲み、わたしを食べよ。わたしはあなたがたにいのちを与える食べ物である。」言ったのでした。
【アスランのくだされた冒険に】
荒野の毎日のマナのように、「自分を養い、生活を支え、安心して生きることができるようにしてください」と願った人びと。私たちも同じように祈ります。健康のため、生活のため、安全のために。けれどもイエスは、それらのことを思いわずらうな、と教えられました。それは、私たちの安心など、どうでもよいからではありません。イエスが差し出されているのは、もっと大きな安心。嵐のない安心ではなく、嵐のなかでもなくならない安心。死の向こう側でもなくならない安心です。
「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29b)はたいせつです。イエスが信仰を与えるとき、それは私たちの内側の心の動きにとどまりません。あふれる愛が私たちを行動へと押し出すのです。愛の冒険へと。
私が明野で説教の日、信愛では有志で映画を見ています。このところはナルニア国物語。繰り返される有名なセリフに「アスランのくだされた冒険にとびこもうではありませんか」があります。
私が明野で説教の日、信愛では有志で映画を見ています。このところはナルニア国物語。繰り返される有名なセリフに「アスランのくだされた冒険にとびこもうではありませんか」があります。
冒険というとなにか恐ろしいことのように思うかもしれません。けれどもそれは、自分が置かれた場所でていねいに生きる、ただそのことです。先週は明野に外国から方がたが出席されました。私は信愛での説教でしたのでお会いしていないのですが、明野の方がたが、とても暖かく歓迎してくださいました。世界につながる小さな冒険が始まったのです。イエスの招きによって。それぞれの場所で。
(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「マケドニアからの叫び」使徒行伝16:6~10
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:エゼキエル書11章19節
- 賛美:280①②
- 交読文:31 詩篇100篇(新聖歌 P.853)
- 祈祷:
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:341①③
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書6章22-31節(新約 P.188)
- 説教:「いのちのパンである神」大頭眞一牧師
- 賛美・献金:434①②③
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載) 大頭眞一牧師
- 報告・祈祷:(裏面に掲載) 司会者