永遠のいのちをめぐって主イエスとユダヤ人たちとの問答が続いています。ヨハネがこれらのことを記しているのは、読む私たちが永遠のいのちを生きるため。私たちは今日も主イエスのお言葉を聴きます。永遠のいのちを生き生きといきるために。
【ナザレのただ人】
イエスは「わたしは天から下って来たパンです」(41)と言いました。自分は神から遣わされた子なる神であるという宣言です。けれども人びとは文句を言い始めます。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」(42)と。それはイエスがただの人であったから。人びとと、そして私たちと何もかわるところがないただの人だったからです。主イエスは私たちと同じように飢えや病に苦しみ、涙を流し、ほかの人の助けを必要としました。そんな主イエスを神だと、人びとが信じることができなかったはむしろ当然です。私たちのまわりのまだ信仰を持っていない人は、「イエス・キリストは立派な人だ。イエスにならって生きなさい」という教えだったら受け入れやすいのに、と言います。けれども聖書は妥協しません。イエスは十字架に架かった神。いかに信じることが難しくても、その信仰告白を要求するのです。
【引き寄せる神】
人はどうしたら「イエスが十字架に架けられた神」だと告白することができるでしょうか。人間にはできません。私たちは信じようと努力しても信じることはできないのです。けれども、聖書は記します。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」(44a)と。ですから「父が引き寄せて」くださるなら私たちは信じることができるのです。先週は、ひとりの兄弟が病床洗礼を受けました。はっきりと「イエスが十字架に架けられた神」であることを告白したのです。それは「父が引き寄せて」くださったから。私たちも「父が引き寄せて」くださったひとりひとりであることを思い起こしましょう。
【だれでもこのパンを食べるなら】
今日は信愛の方がたと聖餐に与ります。先週は明野キリスト教会の方がたと。しかし、明野の方がたは、今日は聖餐に与かっていない、ただ見ているだけ、というのではありません。たしかに明野方がたの前には、目に見えるパンやぶどう汁はありません。けれども、明野の方がたもいわば「霊的な」聖餐に与るのです。それは、明野で聖餐をするときの信愛の方がたにとっても同じです。
聖餐に与るとは、どういうことなのか。先週も申し上げました。パンは食べられるとき、損なわれ、なくなってしまいます。永遠のいのちを得ている私たちは大きな喜びの中にいます。けれどもそこには心を刺すものがあります。主イエスの十字架の苦しみと絶望です。絶望というのは父から切り離される断絶ゆえの絶望。聖餐で私たちがかみ砕くパンはキリストのからだ、飲み干すぶどう汁はキリストの血です。キリストの肉を食べ、血を飲むことは決して楽しいこととは言えません。覚悟のいることです。キリストが命じるのでなければ、とてもする気にはなれません。けれども、キリストはお命じになります。「わたしをかみ砕け、わたしを飲み干せ。そしてあなたの罪のためにわたしが支払ったいのちを受け取れ。受け取って生きよ」と。
先週は求道中のもうひとりの方とお話しすることがありました。その方は自分には罪があると言います。自分には、愛に欠ける言葉と、思いと、行いがあると。けれども「そんな私の罪を、きよいイエスに負わせることは申し訳なくてできません」そう言うのです。私はその方の誠実さに感銘を受けました。けれどもやはり思うのです。主イエスに負わせることなどできない私たちの罪。だからこそイエスが負ってくださった。私たちには、そして、ほかのだれにも決して負うことができない罪だからこそ。そのために主イエスは天からのパンとして来てくださり、ご自分を差し出してくださっています、今。私たちが、永遠のいのちにあずかり、そのいのちを生きるために。
ごいっしょに聖餐にあずかります。
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「ソロモンの知恵」列王記第一3:16~28
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:ダニエル書12章3節
- 賛美:170
- 交読文:33 詩篇104篇(新聖歌 P.855)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:441①②
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書6章41-51節(新約 P.190)
- 説教:「永遠のいのちの神」大頭眞一牧師 ※信愛より
- 聖餐:
- 賛美・献金:342①③④
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム(左上に掲載):大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷: