今日の説教題は、「自分を与える神」。このところ「いのちのパンである神」といった同じような題が続いています。聖書そのものが、私たちのために自分を与えた神を繰り返し語っているから。そんな自分を与える神こそ、ヨハネが私たちにどうしても伝えたいこと、ヨハネを通して神さまが伝えたいこと。かつて、「心とたましいに刻むことば」という説教をしたことがあります。年明けに出る説教集に載る予定です。心とたましいが別べつにあるというわけではありません。神さまには、私たちの存在に刻みたいと願っておられることばがあります。今朝もそんなことばを聴き、心とたましいに刻みたいと思います。
【はるかに力強く】
主イエスは語ります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」(6:53b-55)
もちろん私たちは実際に二千年前の主イエスの血と肉を飲食するわけではありません。それにもかかわらず、主イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲め」と言うのです。食べ物は、私たちに噛み砕かれて、私たちの体の一部となります。イエスのいのちを受け取るということは、ただ、頭の中でイエスを理解するということではありません。また、ただ感情的に動かされるということでもありません。主イエスの与えるいのちは、私たちの一部となります。私たちの存在の一部となるのです。
明野キリスト教会では、木曜日の午後、「一年12回で聖書を読む会」をオンラインで行っています。私の著書『聖書は物語る一年12回で聖書を読む本』を用いて、聖書を読むのですが、今は二年目なので、『聖書はさらに物語る一年12回で聖書を読む本』を読んでいます。先週はヨハネ3章から、ニコデモのところを読みました。「新しく生まれるということはどういうことですか?」とうめくニコデモに、主イエスは不思議な答をしました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネの福音書3:8)と。
私たちがほほで風を感じるとき、私たちに知ることができるのは、風が吹いていることだけです。風がどこで発生し、どこに向かうのかは、わかりません。けれども、確かに風は私たちに届いたのです。イエス・キリストが「新しく生まれさせる神」だということは、私たちにはなぜそうなのかは、よくわかりません。理屈はわからないけれども、でも、主イエスが私たちに届くとき、いのちが始まる。始まったいのちが成長する。そうお話ししました。そして、「このことがおわかりでしょうか?」とお訊ねしました。これは、そもそも無理な質問だと思います。ことばで言い表すことのできないことを語っておいて、「わかったかどうか、ことばで答えてください」というのですから。けれども、受講しておられた方はたいへん賢明な答をしてくださいました。「ことばを超えた大きな神の愛を思っています」と、そういう意味のことを言われたのです。いちぱん大切なことを受け取ってくださったなあ、と私はうれしく思いました。今日の箇所でいうならば、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」という、主イエスの激しい愛が差し出されていることに気づいておられるのだな、と思ったのです。
私たちはきちんと言葉で説明できないもの、数学の数式のようにきちんと書きあらわせないものを、あやふやなもののように思ってしまう傾向があるようです。だから神さまがいるなら証明してほしい、とそんなことを考えます。けれども、神さまは数式よりもはるかにすばらしいお方。はるかに力強いお方です。私たちを新しく生まれさせ、私たちの新しいいのちを成長させ、ご自分が愛するように、私たちをも愛する者としてくださいます。主イエスの肉と血を食する者、主イエスをまるまま、理解できるところも理解できないところも、まるまま食し、受け取る者は、そんなはるかな力強さの中を歩んでいくのです。
【愛は論理を超えて】
なぜなら、愛は説明できないから。愛が論理的でない、というのではありません。愛は、私たちの論理より大きく、私たちの論理を超えているのです。私たちを赦し、癒し、立ち上がらせる。そんな愛が私たちに注がれています。それが自分を与える神の愛。今、ここで、私たちに注がれている愛です。
旧約聖書は「動物の血を飲んではならない」と教えています。血はいのちであって、いのちは神にお返ししなければならないという教えです。主イエスはこの教えをじゅうぶんにご存じのうえで、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食え」と命じました。旧約聖書をくつがえして、神ご自身のいのちを与えてくださったのです。それは、実は旧約聖書の目指すゴールを達成するためでした。神と人がともに生きること。そのゴールは、このように私たちに成就しています。
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「王国の分裂」列王記第一12:1~19
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:ダニエル書12章3節
- 賛美:211①③
- 交読文:34 詩篇108篇(新聖歌 P.856)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:40①④
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書6章52-59節(新約 P.190)
- 説教:「自分をあたえる神」大頭眞一牧師 ※明野より
- 賛美・献金:397①③④
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷:司会者