2022/12/30

主日礼拝(元日礼拝)メッセージ「今年、知っておくべきこと」ヨハネの福音書7章40-52節 大頭眞一牧師 2023/01/01


明けましておめでとうございます。今日の説教題は「今年、知っておくべきこと」。なにかふだんとはちがう、驚くようなメッセージかと思われたかもしれません。けれども語るのは今日も「イエスとはだれか」。いつもと同じです。拍子抜けなさるかもしれないのですが、むしろ安心していただきたいのです。私たちは年が明けたからといって、次つぎに新しいことを学ぶ必要ありません。去年も聴いた福音を今年も生きる。さらにじっくりと心とたましいに刻んで。そして福音は去年も今年も変わらず驚くべき知らせなのです。

【このことばを聞いて】

「このことばを聞いて、群衆の中には、『この方は、確かにあの預言者だ』と言う人たちがいた。」(40)とあります。「このことば」とは、主イエスが仮庵の祭りのときエルサレム神殿で語られたことば。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37b-38)です。

群衆の中には、主イエスを「あの預言者」、すなわち、モーセがかつて「あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)と語った預言者だと思った人びともいました。また「この方はキリストだ」(41)と言った人々も。どちらも主イエスが神から遣わされ、救いをもたらすお方ではないかと考えたのです。

【イエスとはだれか】

ところがそれに対して「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」(41c-42)と言う人たちもいました。私たちは主イエスがクリスマスにベツレヘムで生まれたことを知っています。けれどもそのことを知らない人びとがいました。自分の知っている限られた知識のために主イエスが神から遣わされた救い主、人となられた神ご自身であることを認めることができなかったのです。この人びとを惜しむ神さまの思いが伝わってくるようです。

それにもかかわらず、主イエスを救い主だと信じた人びとがさらに現れます。イエスを捕らえるために祭司長たちとパリサイ人たちから遣わされて出かけた下役たちもそうでした。彼らは手ぶらで戻って来て、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」(46b)と言うのです。彼らはこれまで、祭司長たちやパリサイ人たちが語るのを聞いてきました。それは「律法にはこう書いてある、だからこうしなさい」といった言葉でした。けれども、彼らが主イエスから聴いたのは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37b-38)でした。イエスが立ち上がって、大声で叫んだ宣言を聴いたのです。神ご自身が「来て飲め」と叫ぶのを驚きながら聴いたのでした。「イエスとはだれか」この問いに、こうして応答し始める人びとが起こされていきました。かつてイエスのもとに夜やってきたニコデモも「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」(51)と語ります。生ける水がニコデモからも流れ出はじめているのです。

【今年、知っておくべきこと】

あと数日すれば、お正月休みが終わり、日常の生活、仕事や学校も始まるでしょう。私たちを取り巻く社会は、神さまの存在を前提としていません。ですから、その中で生きるとき、どう判断し、なにを選び、決めるのかを迷うことも多くあります。そんな私たちが、今年、知っておくべきこと、それは「律法(聖書)にはこう書いてある、だからこうしなさい」という祭司長たちやパリサイ人たちが語った言葉ではありません。そうではなくて「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37b-38)というイエスのことば。イエスの愛。主イエスとはだれか。主イエスは、私たちにご自分を飲ませ、私たちからいのちとあふれ出させるお方です。

今から聖餐に与ります。ご自分を飲ませ、食べさせてくださる主イエスとその愛を受け取ります。私たち自身からも、注がれた愛が流れ出し始めます。


   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2022/12/26

クリスマス礼拝メッセージ「生ける水の神」ヨハネの福音書7章37-39節 大頭眞一牧師 2022/12/25


クリスマスおめでとうございます。さまざまなことがあった2022年も最後の主日を迎えました。こういうことを言うときに、よく思うことがあります。それは今年の最後の主日は今日ですが、今年は今日で終わりではないということです。牧師がみなさんのお顔を見るのは教会でだけです。けれども、もちろんみなさんには家庭や職場や地域での生活がある。しかし教会生活とほかの日の生活は、関係ないのではない。主日の礼拝の神さまとの交わりが、私たちを深いところで満たし、それがほかの日も生き生きとした毎日とする。そんなシャンパン・タワーの一番上のグラスのような日、それが主の日なのです。今日も私たちのグラスを溢れさせていただきましょう。

【水汲みの儀式】

ときは仮庵の祭り。エルサレム神殿では「水汲みの儀式」が行われていました。これは正確には「水注ぎの儀式」と呼んだほうがふさわしいかもしれません。町の外にあるシロアムの池から汲んできた水を神殿の祭壇に注ぐのです。[水を注ぐ音] ほら、聴こえるでしょう。これは元もとは、秋の雨を願ういわゆる「雨乞い」の意味を持つ儀式だったようです。みんなじっとその儀式を見守っていたことでしょう。ところがこのとき、主イエスが動かれました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』(37-38)

当時、律法の教師たちは座って教えるのが普通だったそうです。けれども、主イエスは立ち上がって、大きな声で叫びました。「だれでも」と。それはユダヤを超え、世界じゅうのすべての人びとに向かう叫びでした。またこの叫びは時間を超えて、いま、私たちにも届いています。

【聖書が言っているとおり】

ここで「聖書」と言われているのは、旧約聖書。二か所です。ひとつは、イザヤ書55章1節。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」とあります。渇いているものはみな!代価を払わないで!すべての人が招かれているのです。代価を払わないで、つまり、特別な資格はなにも必要ないのです。だから私たちは「自分がどれくらいちゃんと信じているか」などと気にする必要はまったくありません。主イエスは「来て飲みなさい」(37b)と招かれました。招きに応じてこの礼拝に集っている私たちに、生ける水は豊かに注がれています。もう私たちはこの水を飲んでいるのです。[水を注ぐ音]

もうひとつの旧約聖書はゼカリヤ14章8節。「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。」です。いつもお語りしている聖書の大きな物語がここにもあります。神さまが与える水はいのちの水。ユダヤ人を選び、ユダヤ人を通して、いのちの水を世界に与えることが神さまの願いです。世界で最初のクリスマスに、ユダヤ人としてお生まれになった子なる神によって、その願いは成就しました。世界へといのちがあふれ始めたのです。

【心の奥底から】

けれども、主イエスは私たちに、ただ永遠のいのちを与えるだけではありません。「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(38)と言うのです。永遠のいのちは、神のいのち、愛のいのち。いのちの水である主イエスのもとに来た私たち。その私たちから、いのちの水があふれだすのです。[水を注ぐ音] シャンパン・タワーのように。まるで、私たち自身がいのちの源、愛の源であるかのように。

【聖霊を受けるとき】

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(39)とヨハネは、続けます。この仮庵の祭りのときには、まだ、人びとに聖霊は下っていなかったのです。聖霊が下るためには、主イエスの十字架と復活が必要でした。最後の晩餐で、主イエスはこう語ります。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(17:1)。仮庵の祭りは、まだイエスの時ではありませんでしたが、やがて十字架と復活というイエスの時が訪れました。それが栄光の時。人となられた子なる神の栄光、子を遣わされた父の栄光とは、なんと子なる神を与えることだったのです。神にとっての栄光とは、ご自分を与えること。ご自分を与えることによって、世界に愛があふれること。私たちの世界観を、私たちの生き方をひっくり返す驚きがここにあります。

クリスマスおめでとうございます。なぜなら、私たちにはすでに聖霊が注がれているからです。クリスマスの御子を通して、すでに聖霊による愛のいのちに生きる者とされています。そんな私たちはこの世界に愛を注ぎます。目の前にいるひとりひとりの人に。

【愛することとは】

先週の木曜日の午前。明野では聖書の学びと祈り会がもたれました。毎週あるのですが、今年最後とあってたくさんの方がたがご出席でした。そのとき愛するとは、具体的に何をすることか、という話題になりました。愛の見えるかたちはさまざまです。受け入れることであったり、赦すことであったり。でも、ときには戒めることも愛でしょう。あるいは、なにもしないでじっと見ていることも。見えるかたちはさまざまであっても、愛の本質は同じです。相手をたいせつにすること。心を悩ませ、思いをめぐらせながら、自分を差し出すこと。神の子である私たちがそんな愛を注ぐとき、そこには神さまの栄光が現れているのです。

クリスマスおめでとうございます。世界にむかってますます私たちの愛があふれ出しますように。


   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2022/12/17

第4アドベント礼拝メッセージ「子を遣わした神」ヨハネの福音書7章25-36節 大頭眞一牧師 2022/12/18


先週は「父から遣わされた神」という説教題。今日は「子を遣わした神」。このように父と子はひとつの心でクリスマスをプレゼントしてくださいました。今日もそんな神さまの愛の言葉を聴きます。

【迷う人びと】

「さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。『この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。』」(25-26)とあります。ユダヤの指導者たちはすでにイエスを殺そうと考えていました。イエスが安息日に病人を癒し、また、ご自分を子なる神だとしたからでした。ところが、イエスがエルサレムで公に語り始めたのに、だれも手をかけようとはしません。そこで人びとは、ひょっとしたら指導者である議員たちが、イエスがキリスト(救い主)だと認めたのではないか、と思ったのです。

ところが、彼らはすぐにそんな思いを打ち消しました。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(27)と言いはじめたのです。彼らはイエスがナザレから来たことを知っていました。イエスの素性を知っていたのです。救い主はそんな普通の人であるはずがない、それが彼らの思いです。救い主は、突然、どこからともなく、スーパーヒーローとして現れるはずだ、と。こうして彼らは、ひとときは主イエスが救い主であるかもしれないと思ったのに、そこからそれてしまいました。

彼らには神がほんとうに人となるということがわかりませんでした。自分たちと同じ弱く、飢えと病に苦しみ、悲しみの多い人になるということが。神がそれほど自分たちの近くに、自分たちのひとりになることなど、想像すらできなかったのです。

【イエスは大きな声で】

そこに主イエスの大きな声が響きます。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。」(28bcd)、また「わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」(29b)、と。人びとがご自分からそれていくのを、いのちからそれていくのを、主イエスは黙って見ていることがおできになりません。ですから大きな声で叫びました。彼らが「父から遣わされた子なる神」と「子を遣わした父なる神」の愛に気づくように、そしてその愛にとどまるように、と。この叫びは、今も私たちに響き続けています。アドベントが進むごとにさらに強く、さらに大きく。

【イエスの時】

しかしこの叫びは祭司長たちとパリサイ人たちをこれまで以上に怒らせることになりました。彼らは配下の者を遣わしてイエスを捕えようとしたのです。ところがヨハネは「イエスの時がまだ来ていなかったから」(30b)、イエスに手をかける者はいなかった、と記します。「イエスの時」がいつであるか、それはイエスご自身が語られました。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33b-34)がそれです。もう少ししたら起こる十字架・復活・昇天がイエスの時なのです。それまではイエスを憎む人びとがどんなに躍起になってもイエスを捕らえることができません。いつも主語は神、と申し上げています。聖書の、そして世界の主語は神さまです。それは十字架でさえも。子なる神イエスが十字架に架けられることも、やはり神が主語で行われている、神が主導して、ご自身の心を注ぎだして行われたのです。

【愛ゆえに】

これもまた、いつも申し上げることですが、主語である神さまの動機は愛、です。「父から遣わされた子なる神」と「子を遣わした父なる神」が心をひとつに「イエスの時」を実現させたのは、私たちへの愛ゆえでした。私たちが神を知らずに絶望の中でしゃがみこみ続けていることがないために。私たちが愛し合うことを望みつつも、愛を注ぎだせないで凍りついたままでいることがないために。

毎月、明野では月間予定表を、信愛では月報を出しています。今朝はそれぞれ1月号を配りました。それぞれに今月の信仰良書というコーナーがあって、1月号には高橋秀典牧師の『心が傷つきやすい人への福音』をとりあげました。その最初のところに「感受性の強さと繊細さゆえの傷つきやすさや、それに伴うさまざまな困難を、矯正されるべき欠点、癒されるべき痛みとみなすのではなく、主の恵みと慈しみが注がれる窓口とみなします」とあります。これは心が傷つきやすい人ばかりではありません。私たちが困難に会うとき、途方にくれるとき、神さまはその困難を、愛を注ぎ込まれる窓口としてくださる。その窓口から愛を注ぎ込まないではいられないお方なのです。そのための世界で最初のクリスマスに、神が人となってくださいました。人となられたこの神を、今日も喜び合う私たちです。


   ワーシップ賛美(Bless) 「HOPE」オリジナル賛美



   ワーシップ賛美(Bless) 「クリスマス賛歌」



   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2022/12/09

第3アドベント礼拝メッセージ「父から遣わされた神」ヨハネの福音書7章10-24節 大頭眞一牧師 2022/12/11


いよいよクリスマス(降誕祭)まで2週間。今日も仮庵の祭りで語られた主イエスの愛の言葉を聴きます。

【良い人なのか、惑わしているのか】

イエスは内密に仮庵の祭りのためにエルサレムへ上って行きました。当時群衆の間にはイエスについての見方が分かれていました。「ある人たちは『良い人だ』と言い、別の人たちは『違う。群衆を惑わしているのだ』と言っていた。」(12b)とある通りです。このころすでに律法学者たちと主イエスの教えのちがいは明らかになっていましたから、人びとはどちらが神からの教えを語っているのだろうか、と、それをめぐって分かれていたのでした。

【自分から語る律法学者】

かつてイエスがべテスダの池で38年間苦しんでいた病人を癒したとき「そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。」(5:16)とあります。安息日に、さしせまった命の危機にあるわけではない病人を癒したからです。そんなことをすれば、神の怒りをかってしまい、また、バビロン捕囚のようなことが起こるのではないかと恐れていたのです。しかしそれは、自分勝手な解釈で、神さまの思いとはかけ離れたものでした。

【神からの教えを語るイエス】

けれどもイエスは彼らが「自分から語っている」のであって「この教えが神から出たもの」(17)ではない、と言います。ユダヤ人の中で神の教えである律法に最も詳しいのは律法学者たちでした。けれどもイエスは「律法学者たちは神からの教えを語っているのではない。自分たちの解釈を語って、たがいに栄誉を与えあっているだけだ」と言います。律法学者たちは一見、「安息日にいかなる仕事もしてはならない」という十誡(律法の中心)に忠実なように見えます。ところがイエスは、「律法学者たちは律法の心、神の心に忠実ではない」と言うのです。

いつも申し上げる通り、律法は「神と共に歩く歩き方の教え」です。守れば救われ、破れば罰せられるのではありません。ただ神のあわれみによって、救われた私たちが、神の胸の中で、神の心、神の体温を感じながら生きるための教えなのです。

イエスは神のひとり子、つまり子なる神です。父なる神の心、父なる神の体温を、イエスほどよく知っている方はいません。イエスも同じ心、同じ体温を持っているのです。「この教えが神から出たもの」とイエスが言うとき、それは単なる教え以上です。私たちが、神の心、神の体温を知るようにと招いてくださっているのです。

ベテスダの池での癒しは、神の心、神の体温を知る者にとっては当然のことです。もともと安息日の目的は、ただ仕事をしないことではありません。神と共に時を過ごし、神を喜び楽しむためです。ですから、不急であっても安息日のいやしは、むしろ神の心、神の体温にかなっているのです。イエスはこのことを伝えようとして「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。」(22)と言いました。割礼の起源はアブラハムにあります。つまりモーセを通して与えられた律法よりも、さらに古く根源的なのです。生まれてから8日めに施す割礼は、神の民であることの喜びの印です。泣きわめく赤ん坊に施す割礼でさえも喜びの印であるならば、38年間の病をいやされた神の民の喜びは、神の喜び以外のなにものでもないのです。

【父から遣わされた神】

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」(16)とあります。イエスは父なる神から遣わされた子なる神。神であるのに人となり、神であるのに十字架に架けられた神。しかし「であるのに」は不要です。なぜなら私たちをあわれむ神の心、神の体温は、なにも惜しむことがないからです。ご自分を十字架に与えたイエスの心、イエスの体温こそ、父なる神の心と体温の極みです。それは、私たちに神の心と神の体温を教えるために、いえ、教えるだけではなく、私たちに神の心と体温を与えるためでした。今、聖餐に与る私たちに。


   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)

2022/12/03

第2アドベント礼拝メッセージ「世に憎まれた神」ヨハネの福音書7章1-13節 大頭眞一牧師 2022/12/04


今日から待降節(アドベンド)第二週を迎えました。先週の「捨てられる神」の次は「世に憎まれた神」!私たちもまた、かつては神をなんとも思わず、神を捨て、神を憎むこともしかねないものであったことが胸を刺します。けれども今や、神を愛する者とされています。クリスマスの奇跡がここにあります。

【仮庵の祭り】

仮庵の祭りはユダヤの三大祭りのひとつ。他は過越の祭り、七週の祭りです。いずれも多くの人びとがエルサレム神殿に上りました。7章8章は、この祭りのときに、主イエスがエルサレム神殿で語られたことを記しています。そもそも仮庵の祭りは、出エジプトを記念する祭り。神はエジプトからイスラエルを解き放ち、四十年の間、荒野でマナを降らせて養いました。仮庵の祭りは、毎年、木の枝などでにわか仕立ての小屋を作り、七日間そこで暮らして、荒野での恵みを、神に感謝したのです。天から下ったいのちのパンである主イエス。その主イエスにまことにふさわしい祭りということができると思います。

【兄弟たちもイエスを信じていなかった】

ところが主イエスは「わたしの時はまだ来ていません。」(6b)と言います。これは兄弟たち、つまりヨセフとマリアから生まれた弟たちが、「ここを去ってユダヤに行きなさい。…自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」(3b,4)と言ったことへの返事です。

「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(5)とありますから、兄弟たちはイエスの使命を応援したのではありません。彼らもまた、イエスが天から下った神であることを信じていません。「地元ではなくエルサレムに行って、頭を冷やしてきたら」と言ったのです。主イエスの言葉やわざも彼らには響いていないのです。世界で最初のクリスマスがごく少数の人びとによって祝われたことを思い起こします。今も、ほんとうのクリスマスを祝う者たちは少数です。私たちは、その中に加えられているのです!

【わたしの時はまだ来ていません】

「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。」(10)とあります。「わたしはこの祭りに上って行きません。」(8b)と言っておきながら、上って行ったのは奇妙です。けれども何度か申し上げてきたように、ここにもヨハネの二階建ての構造があります。

一階では、実際にエルサレムに行くか、行かないかという会話がかわされています。けれども二階では、「イエスは神であるかどうか」が問題になっているのです。一方には「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」(1b)とあるようにイエスを憎む者たちがいます。イエスがご自分を「天から下ったパンである神」と宣言したことがゆるせなかったのです。兄弟たちも同じように信じることができませんでした。だからほんとうの主イエスは人びとには明らかにされていないのです。公になっていないのです。ヨハネが「いわば内密に」と記すのは、このためです。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」(6)ともあります。このとき人びとは「主イエスは神ではない」と主張します。けれどもそれは現代でも同じです。ほとんどの人は主イエスが神であることは信じないのです。では「わたしの時」と主イエスが言う「主イエスの時」はいつくるのでしょうか。いつかわからない未来なのでしょうか。

ヨハネは13章に「その時」を記します。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)。出エジプトのときに小羊が屠られた過越。主イエスはご自分の十字架の死と復活が「その時」、隠されていた神としての栄光が輝く時、だと言うのです。私たちを最後まで愛することが神の栄光だったのです。それは、当時の、そして、現代の人びとの想像を絶する愛なのです。

【世に憎まれた神】

主イエスは神。世に憎まれた神。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」(7)。主イエスがご自身を神だとさえ言わなければ、憎まれることはありませんでした。けれども、それでは世界は救われなかったのです。「世の行いが悪い」とあります。それは主イエスが神であることを受け入れなかったこと。主イエスはそんな悪い、ご自分を憎む世にご自分を与えました。世にいのちを与えるために。私たちは、その主イエスの血とみからだにあずかります。そのことを思いつつ、聖餐に与りましょう。


   (礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)