明けましておめでとうございます。今日の説教題は「今年、知っておくべきこと」。なにかふだんとはちがう、驚くようなメッセージかと思われたかもしれません。けれども語るのは今日も「イエスとはだれか」。いつもと同じです。拍子抜けなさるかもしれないのですが、むしろ安心していただきたいのです。私たちは年が明けたからといって、次つぎに新しいことを学ぶ必要ありません。去年も聴いた福音を今年も生きる。さらにじっくりと心とたましいに刻んで。そして福音は去年も今年も変わらず驚くべき知らせなのです。
【このことばを聞いて】
「このことばを聞いて、群衆の中には、『この方は、確かにあの預言者だ』と言う人たちがいた。」(40)とあります。「このことば」とは、主イエスが仮庵の祭りのときエルサレム神殿で語られたことば。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37b-38)です。
群衆の中には、主イエスを「あの預言者」、すなわち、モーセがかつて「あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)と語った預言者だと思った人びともいました。また「この方はキリストだ」(41)と言った人々も。どちらも主イエスが神から遣わされ、救いをもたらすお方ではないかと考えたのです。
【イエスとはだれか】
ところがそれに対して「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」(41c-42)と言う人たちもいました。私たちは主イエスがクリスマスにベツレヘムで生まれたことを知っています。けれどもそのことを知らない人びとがいました。自分の知っている限られた知識のために主イエスが神から遣わされた救い主、人となられた神ご自身であることを認めることができなかったのです。この人びとを惜しむ神さまの思いが伝わってくるようです。
それにもかかわらず、主イエスを救い主だと信じた人びとがさらに現れます。イエスを捕らえるために祭司長たちとパリサイ人たちから遣わされて出かけた下役たちもそうでした。彼らは手ぶらで戻って来て、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」(46b)と言うのです。彼らはこれまで、祭司長たちやパリサイ人たちが語るのを聞いてきました。それは「律法にはこう書いてある、だからこうしなさい」といった言葉でした。けれども、彼らが主イエスから聴いたのは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37b-38)でした。イエスが立ち上がって、大声で叫んだ宣言を聴いたのです。神ご自身が「来て飲め」と叫ぶのを驚きながら聴いたのでした。「イエスとはだれか」この問いに、こうして応答し始める人びとが起こされていきました。かつてイエスのもとに夜やってきたニコデモも「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」(51)と語ります。生ける水がニコデモからも流れ出はじめているのです。
【今年、知っておくべきこと】
あと数日すれば、お正月休みが終わり、日常の生活、仕事や学校も始まるでしょう。私たちを取り巻く社会は、神さまの存在を前提としていません。ですから、その中で生きるとき、どう判断し、なにを選び、決めるのかを迷うことも多くあります。そんな私たちが、今年、知っておくべきこと、それは「律法(聖書)にはこう書いてある、だからこうしなさい」という祭司長たちやパリサイ人たちが語った言葉ではありません。そうではなくて「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37b-38)というイエスのことば。イエスの愛。主イエスとはだれか。主イエスは、私たちにご自分を飲ませ、私たちからいのちとあふれ出させるお方です。
今から聖餐に与ります。ご自分を飲ませ、食べさせてくださる主イエスとその愛を受け取ります。私たち自身からも、注がれた愛が流れ出し始めます。