クリスマスおめでとうございます。さまざまなことがあった2022年も最後の主日を迎えました。こういうことを言うときに、よく思うことがあります。それは今年の最後の主日は今日ですが、今年は今日で終わりではないということです。牧師がみなさんのお顔を見るのは教会でだけです。けれども、もちろんみなさんには家庭や職場や地域での生活がある。しかし教会生活とほかの日の生活は、関係ないのではない。主日の礼拝の神さまとの交わりが、私たちを深いところで満たし、それがほかの日も生き生きとした毎日とする。そんなシャンパン・タワーの一番上のグラスのような日、それが主の日なのです。今日も私たちのグラスを溢れさせていただきましょう。
【水汲みの儀式】
ときは仮庵の祭り。エルサレム神殿では「水汲みの儀式」が行われていました。これは正確には「水注ぎの儀式」と呼んだほうがふさわしいかもしれません。町の外にあるシロアムの池から汲んできた水を神殿の祭壇に注ぐのです。[水を注ぐ音] ほら、聴こえるでしょう。これは元もとは、秋の雨を願ういわゆる「雨乞い」の意味を持つ儀式だったようです。みんなじっとその儀式を見守っていたことでしょう。ところがこのとき、主イエスが動かれました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』(37-38)
当時、律法の教師たちは座って教えるのが普通だったそうです。けれども、主イエスは立ち上がって、大きな声で叫びました。「だれでも」と。それはユダヤを超え、世界じゅうのすべての人びとに向かう叫びでした。またこの叫びは時間を超えて、いま、私たちにも届いています。
【聖書が言っているとおり】
ここで「聖書」と言われているのは、旧約聖書。二か所です。ひとつは、イザヤ書55章1節。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」とあります。渇いているものはみな!代価を払わないで!すべての人が招かれているのです。代価を払わないで、つまり、特別な資格はなにも必要ないのです。だから私たちは「自分がどれくらいちゃんと信じているか」などと気にする必要はまったくありません。主イエスは「来て飲みなさい」(37b)と招かれました。招きに応じてこの礼拝に集っている私たちに、生ける水は豊かに注がれています。もう私たちはこの水を飲んでいるのです。[水を注ぐ音]
もうひとつの旧約聖書はゼカリヤ14章8節。「その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。」です。いつもお語りしている聖書の大きな物語がここにもあります。神さまが与える水はいのちの水。ユダヤ人を選び、ユダヤ人を通して、いのちの水を世界に与えることが神さまの願いです。世界で最初のクリスマスに、ユダヤ人としてお生まれになった子なる神によって、その願いは成就しました。世界へといのちがあふれ始めたのです。
【心の奥底から】
けれども、主イエスは私たちに、ただ永遠のいのちを与えるだけではありません。「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(38)と言うのです。永遠のいのちは、神のいのち、愛のいのち。いのちの水である主イエスのもとに来た私たち。その私たちから、いのちの水があふれだすのです。[水を注ぐ音] シャンパン・タワーのように。まるで、私たち自身がいのちの源、愛の源であるかのように。
【聖霊を受けるとき】
「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(39)とヨハネは、続けます。この仮庵の祭りのときには、まだ、人びとに聖霊は下っていなかったのです。聖霊が下るためには、主イエスの十字架と復活が必要でした。最後の晩餐で、主イエスはこう語ります。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」(17:1)。仮庵の祭りは、まだイエスの時ではありませんでしたが、やがて十字架と復活というイエスの時が訪れました。それが栄光の時。人となられた子なる神の栄光、子を遣わされた父の栄光とは、なんと子なる神を与えることだったのです。神にとっての栄光とは、ご自分を与えること。ご自分を与えることによって、世界に愛があふれること。私たちの世界観を、私たちの生き方をひっくり返す驚きがここにあります。
クリスマスおめでとうございます。なぜなら、私たちにはすでに聖霊が注がれているからです。クリスマスの御子を通して、すでに聖霊による愛のいのちに生きる者とされています。そんな私たちはこの世界に愛を注ぎます。目の前にいるひとりひとりの人に。
【愛することとは】
先週の木曜日の午前。明野では聖書の学びと祈り会がもたれました。毎週あるのですが、今年最後とあってたくさんの方がたがご出席でした。そのとき愛するとは、具体的に何をすることか、という話題になりました。愛の見えるかたちはさまざまです。受け入れることであったり、赦すことであったり。でも、ときには戒めることも愛でしょう。あるいは、なにもしないでじっと見ていることも。見えるかたちはさまざまであっても、愛の本質は同じです。相手をたいせつにすること。心を悩ませ、思いをめぐらせながら、自分を差し出すこと。神の子である私たちがそんな愛を注ぐとき、そこには神さまの栄光が現れているのです。
クリスマスおめでとうございます。世界にむかってますます私たちの愛があふれ出しますように。
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「最高のプレゼント」ヨハネの福音書3:16~21
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:詩篇24篇7節
- 賛美:76①③⑤
- 交読文:39 詩篇122篇(新聖歌 P.860)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:77①③
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書7章37-39節(新約 P.194)
- 説教:「生ける水の神」大頭眞一牧師 ※信愛より
- 賛美・献金:75①②④
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷: