棕櫚の主日を迎えました。今日から始まる受難週も、主イエスの愛の言葉を聴きつつ歩みます。
【あわれみの神】
9章からの主イエスとパリサイ人の会話は今日も続きます。発端は、生まれつき目が見えなかった人を主イエスが安息日にいやしたことです。パリサイ人たちは、主イエスが神から遣わされた救い主(キリスト)であることを否定しましたが、その理由がこの安息日のいやし。パリサイ人たちにとって、神は律法を守る者にはあわれみ深いが、律法を守らない者には厳しい神。安息日に人をいやすことをけっして赦さないお方です。
ところが主イエスは「わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。」(25c-26a)と言います。安息日に人をいやすことこそ、主イエスが神からの救い主であることの証拠なのです。父なる神は、安息日であろうがなかろうが、一刻も早いいやしを願われるあわれみの神。この父から遣わされた者は、安息日にいやしを行うことをためらうはずなどないのです。あわれみにおいて、父とひとつであるからです。
ところがパリサイ人たちにはあわれみの神がわかりません。ですから神が人となったあわれみがわからず、主イエスを十字架へとおいやりました。あわれみゆえに十字架に架かる神など想像することもできなかったのです。
神があわれみの神であることを知らなかったパリサイ人たちは、安息日のいやしをまったく誤って解釈してしまいました。神のあわれみを神の怒りを招く行為だと思ったのです。彼らは熱心でした。けれども熱心さよりもたいせつなものがあります。それは神のあわれみを知っていることです。
【主イエスの羊】
熱心さよりたいせつなものがある。そんな言葉は私たちを居心地わるく感じさせるかもしれません。「あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。」(26b)という主イエスの言葉を聞くとなおさらです。主イエスは熱心なパリサイ人たちにこう言ったのですから。けれども恐れることはありません。主イエスは「わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(27b)とおっしゃったからです。主イエスは羊である私たちを知ってくださっている!ここに救いの根拠があります。救いは私たちがそれに値するからではありません。主イエスが私たちを知ってくださっていることにあるのです。
【三重の愛】
私たちは、自分は主イエスの羊だろうか、主イエスの声を聞いているだろうか、としばしばうなだれます。もっとがんばらなければ、と自分を責めて疲れてしまうこともあります。そんな私たちに主イエスの御声が響きます。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」(28)。だれも、とあります。誘惑も、私たちの弱さも、そして死さえも、私たちを主イエスの手から奪い去ることはできないのです。それは主イエスが私たちを握りしめて離さないからです。愛ゆえに。
それだけではありません。「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(29-30)父なる神もまた私たちを握りしめて離さないのです。愛ゆえに。もうおひとかた、聖霊も同じです。聖霊も私たちを握りしめて離さない。愛ゆえに。こうして私たちは父と子と聖霊の三重の愛の手に握りしめられています。私たちがそれに値するからではありません。私たちが値しなければしないほど、三重の愛の手は私たちを握りしめるのです。離さないのです。
【凍りついた愛が】
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」(28a)こそ、主イエスが人となられた理由でした。今週の木曜日と金曜日は教区のユース+キャンプで湖西祈りの家に行ってきました。まだ信仰を告白していない人も来られるということでしたので、「永遠のいのち」をどのように伝えたらよいか、と思いをめぐらしました。やはり死んでから天国に行くことだと思われやすいからです。永遠にいのちは、もちろん、今始まるいのちです。今、始まって私たちからあふれ出して世界を回復させ、死の向こう側にまで続くいのち。それをどう語ろうかと思ったときに、以前、教団の青年たちに語った「凍りついた愛が解け始める」というメッセージを思い出しました。永遠のいのちは、何よりも私たちの愛の回復に現れます。私たちが受けてきた痛みや苦しみは、私たちの心を閉ざし、愛することに臆病にさせてしまっています。愛が凍りついているのです。けれども、十字架で死と罪の力に勝ってくださった主イエスは、私たちに新しいいのちを注ぎ、凍りついた愛を解かしてくださっています。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな愛を私たちは生きています。復活の主イエスと共に。その手に握りしめられて。
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「十字架による新しい絆」ヨハネの福音書19:23-30
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:ピリピ人への手紙2章6-8節
- 賛美:114①③
- 交読文:53 ルカの福音書22章(新聖歌 P.869)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:113①③
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書10章22-30節(新約P.203)
- 説教:「羊を知る神」大頭眞一牧師 ※明野より
- 賛美・献金:101①②③
- 感謝祈祷:(明野)
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63、詞は下記)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷:司会者