マルタとマリアとラザロのべたニアの家。今はラザロを失った悲しみの家。そこに響いた主イエスのみ声を聴きます。
【もしここにいてくださったなら】
悲しみの家にマルタの声が響きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と。マルタの主イエスを信頼しているのです。主イエスが来てくださりさえ、すれば必ず、助けてくださる、と。そこには「なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか」という訴えがあります。この「なぜ」を、私たちもしばしば経験します。「なぜ、このことが起こらないようにしてくださらなかったのですか」と。
続くマルタの言葉には、胸がしめつけられるような気がします。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(22)です。愛するラザロを失いながらも、「今でも」と言うのです。けれどもそこには、主イエスへのかすかな信頼が香っています。マルタはこれから起こることを知りません。想像もできません。けれども、言うのです。「今でも、主イエスを信頼している」、と。これを読んで「マルタの信仰は立派ですね。私たちもならいましょう」などと言って済ませてはなりません。マルタにこの信仰を与えたのは主イエスです。そして主イエスは、マルタと同じ信仰を私たちに与えてくださっています。絶望のときにもかすかに香る主イエスへの信頼を。
【主イエスの宣言】
そして主イエスのみ声がこだまします。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23b)と。これに対するマルタの答えは、たいへん正統的なものでした。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(24b)がそれです。これは私たちも知っています。人は死んで眠りにつき、再臨の日に復活する、と。だからマルタの答えにはなにもまちがったところはありません。
ところが、主イエスは、いつものようにマルタを、そして私たちを驚かせます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23a)と。主イエスは、そのとき、その場で、ラザロをよみがえらせると言い、その通りになさったのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最大の奇蹟。けれども不思議なことがあります。主イエスは、ラザロだけをよみがえらせた。しかもラザロがよみがえったのは、しばらくの間だけ。その後、ラザロはまた死んだのです。いったいそこに何の意味があるのでしょうか。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25b-26)がイエスの答えです。この主イエスの答えに言葉を補いながら、言い替えるとこうなります。「わたしはいのちだ。その意味をあなたがたが知ることができるように、ラザロをよみがえらせよう。見るがいい。死んだラザロがよみがえる。わたしは死よりも強いからだ。(なぜなら、わたしが死の力を十字架で打ち砕くから。)わたしを信じたあなたがたに、わたしは死よりも強いいのちを与えた。このいのちは死によって断ち切られることはない。死んでも、死の向こう側にまで続く。このいのちは生きている者のうちにあって、永遠に断ち切られない。今、このいのちを知れ。このいのちを喜べ。このいのちを生きろ」と。
正統なマルタの復活信仰。主イエスはその正統な信仰を、さらに生き生きとした信仰に成長させました。復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちはもうすでに、マルタの中に始まっている、と知らせました。目に見える死の力よりも、はるかに強い豊かないのちが始まっている、と知らせたのです。
ゴッホ「ラザロの復活」 |
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「天地創造」創世記1:1-31
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:ピリピ人への手紙2章6-8節
- 賛美:280①②
- 交読文:56 ローマ人への手紙12章(新聖歌 P.873)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:251①③
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書11章17-27節(新約P.205)
- 説教:「いのちの神」大頭眞一牧師 ※信愛より
- 賛美・献金:428①②③
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63、詞は下記)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷: