先週は、主イエスの「ラザロよ、出て来なさい」の叫びを聴きました。死と罪の力からの解放の宣言です。けれども、そのために主イエスは十字架と復活を通らなければなりません。事態は一気に動き始めます。
【見ないで信じる私たち】
「マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。」(45)とあります。この人たちはラザロがよみがえったのを見て、イエスを信じました。けれども、やがて彼らが、主イエスを十字架につけようとすることを、私たちは知っています。しるし、つまり、奇蹟を見て信じることと、イエスとの愛の関係に入ることはちがいます。それなのに、私たちは主イエスと愛し合う関係に入れられています。しるしを見ようが見まいが、主イエスと共に生きるのです。主イエスがしてくださったこの不思議を喜ぼうではありませんか。
【自分たちにとって得策】
ところが、「祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集し」(47a)ました。「あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」(48a)と心配したからです。当時、ユダヤはローマの属国。半独立国でした。ユダヤ人たちは異邦人であるローマの支配を不満に思っていました。そしてユダヤをローマから解放するメシア(救い主)の出現を待望していたのです。そこへラザロのよみがえりです。ユダヤの民衆がイエスをかついで、ローマに反乱を起こすかもしれない、そうしたらローマの怒りをかい、属国の地位も奪われるでしょう。そうなったら、ユダヤの指導者たちも特権をはく奪されてしまう、そう恐れたのです。イエスの時代の後、ユダヤは実際にローマに反乱を起こし、その結果、国が消滅したのですから、この恐れは現実のものでした。
そこで大祭司カヤパが「あなたがたは何も分かっていない。」(49b)と言います。彼にはわかっていました。「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(50)、つまり、「イエスを殺さなければならない。そうしたら反乱は起こらないですむ。ユダヤは、そして自分たちユダヤの指導者たちは現状を維持することができる」と。会議の結論は、イエスを殺害することでした。しるしを見て信じた民衆も、しるしを見て恐れた指導者たちも、だれも主イエスの心、神の心を知る者はいなかったのです。
【神の心】
イエスを殺すべし、と、自分たちの保身のために発言した大大祭司カヤパ。けれどもヨハネは不思議な言葉を記します。「このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので…預言したのである。」(51b-52)と。つまりカヤパは自分ではそのつもりがなかったのに、預言をしたのです。神の心を語ったのです。心ないカヤパの言葉に、神がご自分の心をこめてくださり、心をこめて意味を造り出してくださった、と言うこともできるでしょう。
その意味とは「イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられること」(51b-52)でした。
このとき、だれも神の心を知る者はいませんでした。ユダヤの民衆は、奇蹟を行ったイエスをかついでローマを追い出そうとしました。指導者たちは、ローマに逆らわないで、現状を維持しようとしました。けれども神の心はユダヤ人もローマ人も、すべての人びとを救うことにありました。すべての人に神のいのちを与えて生きる者にすること。そのために神である主イエスが人となって来てくださったのでした。どんな犠牲を払っても、十字架の血をもっても、私たちを神の子とすること、それが神の心なのです。
ゴールデン・ウィーク中に明野キリスト教会でひとりのご高齢の方が受洗されました。「これからは息子夫婦といっしょにイエスさまを信じて生きていきます」と告白なさったのです。洗礼式の中で、私は、説教の代わりに、その方に宛てたとても短いお手紙をお読みしました。「洗礼おめでとうございます。イエスさまはすべての人に洗礼を受けるように命じました。それは、イエスさまが私たちを洗ってくださったことを忘れないため。私たちの恥ずかしい、言わなければどんなによかったか、と思う言葉、他の人を思いやることができなかった痛み、それら全てを十字架で洗ってくださいました。今よくわからなくてもだいじょうぶです。だんだんわかります」と。
この後、聖餐に与ります。洗礼の水、聖餐のパンとぶどう汁、みな不思議です。いったいどういう意味なのだろうか、と首をかしげる私たちです。教会は、これらを「神の見えない恵みの見えるしるし」と呼んできました。すべての人のすべての罪を赦し、神のいのちを注ぐ神の恵みと神の心は、私たちにはとらえきれません。とらえるのはあまりにも大きいからです。けれども、とらえきれない私たちを神はしっかりととらえてくださって放しません。だから私たちは、キリストのいのちを生きることができます。まるでキリストのいのちがないかのように生きるのではなく。
聖餐にあずかります。見えないほどに大きな神の恵みと心に包まれて。
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「父と母とを敬え」出エジプト記20:12-17
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:イザヤ書49章13節
- 賛美:4①②
- 交読文:59 ヨハネの手紙第一 4章(P.876)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:252①③
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書11章45-57節(新約P.206)
- 説教:「民に代わって死ぬ神」大頭眞一牧師 ※明野より
- 聖餐:(心を合わせて加わりましょう)
- 賛美・献金:「まぼろしの」①③④
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63、詞は下記)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載)司会者 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷:司会者