ラザロをよみがえらせた主イエスを最高法院が殺そうとしたため、主はいったん「荒野に近い地方に去って、エフライムという町に入り、弟子たちとともにそこに滞在された」(11:54)のでした。これが先週の箇所。ところが、今日の箇所で「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。」(1)とあります。ベタニアはエルサレムへ向かう通過点。主イエスは過越の祭りをエルサレムで迎えるために、つまり十字架に架かるために戻って来られたのでした。
【ナルドの香油】
香油注ぎの記事がルカの福音書にもあります。ルカでは、もてなしに心を奪われているマルタの姿は否定的に描かれています。でもヨハネはそうではありません。マルタとマリアを比較するのではなく、主イエスとマリアに焦点を合わせているのです。
マリアが注いだ香油は一リトラ、約326グラム。こういうものは数滴ずつしか使わないもの。ところがマリアはこれを全部イエスの足に注ぎました。足がびしょびしょになってぬぐわなければならないほどに。イスカリオテのユダの見積もりによれば三百デナリ。日当が一デナリですから、年収に相当する金額です。これはマリアの全財産であったかもしれません。そこから、「マリアは全財産を主イエスに献げた。私たちもすべてを献げて」と言いたくなるところです。けれども、これがマリアの全財産であったかどうかは書かれていません。そして三百デナリと、金額を問題にしたのはイスカリオテのユダであって、主イエスでもマリアでもないことに気づくのです。
ユダは「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5)とマリアを責めます。それはユダには二つの後ろめたさがあったから。一つには「イエスを裏切ろうとしていた」(4)から。もう一つは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(6)。つまりユダの愛は失われてしまっているのです。主イエスへの愛と仲間への愛、二つの愛が。
マリアが注いだのは愛。ラザロをあわれみ、マリアをあわれんで注がれた主イエスの愛。ラザロを生き返らせてくださった主イエスの愛が、今、マリアに満たされ、あふれだしました。家は香油の香りでいっぱいになった。」(3b)。マリアはただただ主イエスに愛を注ぎたかった。三百デナリだろうがどうだろうが、そんなことも考えていないのです。貧しい人のために施すことも、まったく頭にありません。今、ここで、目の前の主イエスの愛を注ぐことに夢中になったのでした。ユダは正論です。冷静に考えればその通りなのでしょう。その意味ではマリアは愚かです。数百万円をむだにしたのですから。
けれども愚かと言えば、ユダの目に最も愚かに見えたのは主イエスの十字架だったでしょう。民衆が待望し、王にしようとしているのに、主イエスは十字架を選ぶのです。そして主イエスは「そうだ、ユダのいう通りだ。マリア、なんと無駄なことをするのだ」とは言いません。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7)と、マリアをよしとされたのです。マリアの愛を喜ばれたのです。ユダの冷たい視線の先に、愚かなイエスと愚かなマリアがいます。ふたりは愚かな愛を注ぎ合って、喜び合っているのです。
【けれども、神が】
主イエスの「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」(7b)は、もちろん十字架を指します。もちろんマリアは、すべての人にいのちを注ぐ十字架を知っていたわけではありません。けれども、神が、マリアの愛に意味を創り出してくださいました。マリアの愚かな愛、愚かな行いを、十字架に結び付け、貴い愛、貴い行いとしてくださったのです。
私たちはマリアの愛に感謝します。私たちもそうしたかったからです。それをマリアが代わってしてくれたのです。そして私たちは主イエスの愛に感謝します。マリアの愚かな愛を貴い愛としてくださった主イエスは、私たちの愚かな愛を貴い愛としてくださるからです。私たちは愚かなだけではありません。しばしば心弱く、不完全で、ときには後ろめたさを正論で押し切ろうとするユダにも似た私たち。主イエスはそれでも私たちの愛を、「そのままにさせておきなさい。」と言ってくださいます。「あなたがたの愛をわたしは喜んでいる。なお、わたしの愛を注いであげよう。ますます、あなたがたが健やかになるように。あなたがたの愛が解き放たれるように」と。そんな主イエスを、そんなたがいを、今日も私たちは喜んでいるのです。
礼拝プログラム
■教会学校(9:30-10:15)
- 「さいわいな人」マタイの福音書5:1-12
■主日礼拝(10:30-11:45)
- 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
- 招詞:イザヤ書49章13節
- 賛美:7①③
- 交読文:60 ヨハネの黙示録21章(P.877)
- 牧会祈祷:大頭眞一牧師
- 主の祈り:新聖歌 P.826
- 賛美:172①②
- 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
- 聖書:ヨハネの福音書12章1-11節(新約P.207)
- 説教:「香油を注がれた神」大頭眞一牧師 ※信愛より
- 賛美・献金:221①③④
- 感謝祈祷:
- 頌栄:讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)
- 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
- 祝祷:大頭眞一牧師
- カテキズム:(左上に掲載)大頭眞一牧師 と 報告:(裏面に掲載)司会者
- 祈祷: