2024/07/29

礼拝メッセージ「父の子である主」マタイの福音書3章13-17節 大頭眞一牧師 2024/07/28


ゲスト説教者が続いたので、3週ぶりとなるマタイ。前回はバプテスマのヨハネが「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)、すなわち「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。『世界の破れを回復するために、立ち上がれ。そのために来られた王と共に働け』と民に告げよ」と人びとを励ましたことを見ました。今日の箇所では「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。」(13a)と。いよいよ主イエスの登場です。

【イエスの洗礼?】

イエスが来られたのは「彼(バプテスマのヨハネ)からバプテスマを受けるためであった。」(13b)とあります。ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」(14b)ととどめようとします。

前回、語ったようにバプテスマとは「自分を王とする生き方、神さまを王としない、自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わる」こと。だとするなら神であるイエスにはバプテスマは必要ないはずです。ヨハネがいぶかったように、確かにイエスのバプテスマは不思議な出来事でした。

【正しいことをすべて実現する】

ところがイエスはヨハネに「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(15a)と言います。命じるのではなく、ヨハネを招くように。そしてバプテスマを受けられたのでした。

「正しいこと」とは、神さまと同じ思い、同じ心で、神さまと共に生きること。主イエスは、今、神でありながら人となり、世界の破れの回復の新しい段階を始めようとしています。力まかせにではなく、人びとの心を神に向けさせることによって。だから先頭に立ってバプテスマを受けました。神さまの心を受け取り、神さまと共に生きる人びと。その先頭に立ってくださったのでした。私たちが後に続くことができるように。聖霊によって。そのために神が人となりました。愛ゆえに。

【天からの声】

イエスがバプテスマを受けたとき、天からの声が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と、告げました。聖書に通じたユダヤ人ならイザヤ書が頭に浮かんだはずです。「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。」(イザヤ42:1)の部分。旧約聖書を通して人びとが長く待ち望んでいた救いが、今、実現するのです。だれよりも神ご自身が長く待ち望んでおられました。ただそれは、神の敵がたちどころに倒される、といった救いではありませんでした。

【主のしもべの歌】

イザヤ書42章以後には「主のしもべの歌」と呼ばれる箇所が四ケ所あります。その四つ目の、クライマックスの歌が52章13節から53章12節。特に「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。イエスは十字架に架けられた神、十字架に架けられた救い主、十字架に架けられた癒し主なのです。何からの癒しか?信愛のCSでは月に一度、中高科と幼小科が合同で「信仰の学び」のときを持っています。いまは「十字架の意味」シリーズで、全四回。どうして四回も、と思うところですが、私はいつも子どもたちに語ります。「イエスさまはぼくたちの問題のすべてを解決する。罪も、罪の原因も、罪の傷も、罪の結果も。ぼくたちが新しい問題に直面するたび、その解決も十字架にある。だから十字架はたくさんの意味を持っている。ぼくたちをすべての問題から解放し、癒すから。じっくりと、根本から。」と。

【聖霊が】

バプテスマを受けた主イエスに聖霊が降りました。神と共に生きることを可能にする、この癒しの聖霊は私たちにも注がれました。だから神は私たちをも「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(17b)と喜んでくださっているのです。私たちのすべての問題を担ってくださって。


(教会学校メッセージ「不信仰を取り除く」)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2024/07/08

礼拝メッセージ「造り出す主」マタイの福音書3章1-12節 大頭眞一牧師 2024/07/07


「そのころ」(1)は不思議です。直前の2章の終わりは、幼子イエスがナザレに行って住んだところで終わっていますから、バプテスマのヨハネの出現まで30年近い歳月が経っているはず。けれども、マタイが思わず「そのころ」と記したのには理由があります。ユダヤ人が待ち望んだ救い主がついに来ました。ずっと長く待ち望んだ期間を思えば、救い主の誕生から始まるできごとはあまりにすばらしくて、またたく間に起こったと思えたのでした。

【主の道を】

ヨハネが語ったのは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(2)。他の福音書での「神の国」ですが、マタイはユダヤ人に向けて、「神」を「天」に言い換えたともいわれます。神のご支配という意味です。今、神が人となってこの世界に来られ、その支配を確立するときがいよいよ来ました。主イエスが、人びとの心を解き放ち、新しいいのちに満たすために来られたのです。ヨハネはそんな主イエスの道を備えるために現れました。人びとの心を主イエスに向けるために。

主イエスが求めておられるのは悔い改め。罪の悔い改めです。けれども、罪とは盗んだとか嘘をついたというような実際の行いだけではありません。ルターによるなら「罪とは、自分の内側に折れ曲がった心」です。自分の利益だけを考える折れ曲がりも、自分など価値がないと落ち込む折れ曲がりも、神さまの目には罪なのです。神さまは罪びとの私たちをあわれみ、どんなことをしてでも私たちを罪から救い出したいと願われ、御子を与えてくださいました。十字架にまで。

【ヨハネの水のバプテスマ】

「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(5-6)とあります。彼らはユダヤ人でしたから、ユダヤ教に改宗したというわけではありません。自分を王とする生き方、神さまを王としない自分の内側に折れ曲がった生き方から、心を神さまに向け、神さまを王として受け入れる生き方へと方向転換をして、神の民に加わるバプテスマを受けたのでした。こうして、主イエスを迎える準備は整ったのでした。

【主イエスの聖霊と火のバプテスマ】

ところが、ヨハネは「大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると」(7)、厳しい言葉を口にします。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」(7)や「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(10)と。

それはパリサイ人やサドカイ人の悔い改めが不十分であったというわけではなさそうです。ヨハネは「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(8)とも言っていますから。カギになるのは彼らがユダヤの指導者であったこと。「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(9)とあります。アブラハムの子孫であるユダヤ人には、神と共に世界の回復のために働く使命があります。だからヨハネは彼らを励ますのです。「さあ、思い出せ。あなたがたはアブラハムの子孫ではないか。神と共に働く者ではないか。ユダヤの指導者として民に告げよ。世界の破れを回復するために、立ち上がれと。そのために来られた王と共に働け、と。民に告げよ」と。

パリサイ人やサドカイ人は、たじろいだかもしれません。「どうして私たちにそんなことができるだろうか、ローマの属国であるユダヤで」、と。

そこへ良き知らせが響きます。「私(ヨハネ)の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」(11)と。私たちを聖霊に満たして神の友とし、私たちの罪を、自分のうちに折れ曲がった心を、引き受けてくださる主イエスがもう来られたのです。

私たちの心を内側に折り曲げようとする力は今も働きます。けれども「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされ」る(12b)お方、私たちをたいせつに抱きしめ、悪しき力を焼き尽くされるお方、私たちの王なのです。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)