2024/09/02

礼拝メッセージ「必要なことは一つだけ」ルカの福音書10章38-42節 佐藤直哉牧師 2024/09/01

①主の足もとに座るマリア

39節「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」

イエス様が弟子たちにみことばを語られている中に、マリアは大胆にも弟子たちとともにイエス様の足もとに座って、みことばに聞き入ります。マリアは、イエス様がすべての人を分け隔て無く特別な存在として愛してくださるお方であり、自分のためにも語ってくださると信じていました。それで彼女は主の足もとに座りました。主が私を愛し、私のために語ってくださると信じて、主の語りかけを聞く者はさいわいです。

②心が落ち着かないマルタ

40節「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』

マルタは弟子たちと自分は違うと意識していたのではないでしょうか。それで、マリアの大胆な行為をよく思っていなかったのでしょう。ただでさえ、いろいろなもてなしに落ち着かずにいたマルタは、イエス様に自分が正しいことを主張します。それは、場を支配し、イエス様さえも支配しようとすることばになってしまいました。マルタは主の愛に留まることより、自分が正しくあることを求めてしまったのです。

③必要なことは一つだけ

41~42節「主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」

自分の力で正しくあることを求めると、主の愛を見失って多くのことに捕らわれて、心を乱してしまいます。必要なことは一つ、主の臨在に感謝して、ともに主の足もとに座り、主の愛に満たしていただくことです。それは奉仕を否定するものではありません。主の愛のための奉仕も必要とされます。そして、たとえみことばに聞き入っていたとしても、愛がなければ無に等しくなってしまいます。

イエス様が「それが彼女から取り上げられることはありません」と言われたことは、なんとさいわいなことでしょうか。私たちが主の足もとに座ることができるのは、イエス様が私たちを愛するがゆえに全てを捨て、人となられてこの地上に来てくださったからです。この世のどんな力も、私たちから主の臨在、主の愛を取り去ることはできません。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)



礼拝プログラム

■教会学校(9:30-10:15)

  • 信仰の学び⑭「十字架の意味④治癒」

■主日礼拝(10:30-11:45)

  • 前奏:(奏楽の内に主を待ち望みましょう)
  • 招きの言葉:アモス書5:24(旧約 P.1567)
  • 賛美:137
  • 交読文:6 詩篇22篇(新聖歌 P.833)
  • 牧会祈祷:(八幡福音)内田純牧師
  • 主の祈り:新聖歌 P.826
  • 賛美:300
  • 信仰告白:使徒信条(新聖歌 P.826)
  • 聖書朗読:ルカの福音書10章38-42節(新約 P.136)
  • 説教:「必要なことは一つだけ」佐藤直哉牧師 ※明野より
  • 賛美・献金:367
  • 感謝祈祷:(知多)
  • 頌栄讃美歌21「27番」(曲は新聖歌63と同じ、詞は下記)
  • 「父・子・聖霊の ひとりの主よ 栄えと力は ただ主にあれ とこしえまで アーメン」
  • 祝祷:(八幡福音)内田純牧師