マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第六の祝福、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(8)です。私たちはここを読んでがっかりすることがあると思います。「心のきよい人は幸いなんだろうな。でも私は不純な思いに満ちている。だからこの幸いは私にはない。現に私は神を見たことなんてない。私のように心の汚れている者には神を見ることなんてできないんだ。何とか少しでも心がきよくなりたいと願って、教会に通い、聖書を読んで、祈っているんだが…」と。もちろん主イエスは、そんな私たちの誤解を根底から覆されます。今日もここから驚くべき福音を聴きましょう。
【心のきよいとは】
聖書のいう「心のきよい」とは、どういう意味なのでしょうか。このことは「きよめ派」と呼ばれる伝統にある私たちにとって大きな課題であり続けています。「私はきよめられているだろうか。はっきりとしたきよめの体験があるだろうか。そんな体験はない。だから私は、もっと熱心に、もっと聖書を読み、もっと祈らなければならない」そう思って苦しむのです。私もかつてはそんな毎日を過ごしていました。
ところが神学校に入り、ジョン・ウェスレーや彼に影響を与えた古代教会の教父たちの信仰を学ぶうちに目が開かれる気づきが与えられました。それは「心のきよさ」とは自分の努力によって獲得する自分の「持ち物」ではないこと。そうではなくて、神さまが毎瞬毎瞬、注ぎ続けてくださっているいのちを受け取ること。ですから私たちのこころが、神さまの注ぐいのちに、いま可能な限り大きく開かれているなら、それが「心のきよい」者であり、その人は神を見ているのです。
ですから、主イエスはひとりの律法の専門家が、「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と訊ねたとき、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と答えました。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして」とあります。私たちの全存在で、今できる全力で神を愛する、それでいいのです。神さまは私たちにできないことを要求されません。また「自分自身のように」とも。自分も隣人もたいせつに愛する、それでいいのです。
今年の10月には岡山の水島で行われたナザレン山陽四国聖会に祈りをもって送り出していただきました。その聖会の後、主催者が参加者にアンケート調査を行ったのですが、先日その結果が送られてきました。それを見てとても嬉しくなりました。例えば「聖化という言葉は聞いていましたが、自分の生きている毎日の中でとてもきよく生きていないと思い、恥ずかしく、できない自分に悩んでおりました。しかし…目が開かれる思いがしました」「私は私でいいんだとの思いを強く持つことができて感謝です」「クリスチャンホームで育ち、毎週教会に行くことが当たり前で、『〇時○分きよめられる』という証しはたくさん聞いて育ってきたけれど、自分にはそんな体験はなかった…瞬間のきよめではなく、神さまと人との関係性が大事だと聞き『なんだ、それでいいんだ』とほっとした思いだった」。
【神を見るとは】
「神を見る」と聞くと、なにか幻を見るとか、夢に神さまが現れる、といったことを想像しがちでしょう。けれども聖書の「神を見る」は、すべての人に神が与える、確かな恵みです。イエス・キリストの十字架に、私たちの罪と罪にまつわるいっさいが担われていること。そしてイエス・キリストの復活によって私たちに愛のあふれるいのちが注がれていること。このことを知っている者は神を見ている者たちです。
自分の内側をのぞき込んで「私はまだ足りない、まだまだだ」とつぶやく者は、自分を見ています。けれどもイエス・キリストを仰ぐものは神を見ています。十字架に架けられた神を見ているのです。
【ますます心きよく】
今、可能な限りの愛で、神と人とを愛している私たちは「心のきよい者」です。そんなたがいを喜びましょう。自分に愛の足りなさを感じるときも、うずくまってはなりません。神さまは、私たちの愛をますます大きくしてくださいます。昨日よりも今日、今日よりも明日。そんな私たちを通して世界の破れをつくろうために。