2025/04/21

イースター礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイの福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2025/04/20


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事、生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ」とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。



(CSメッセージ「よみがえられたキリスト」ルカの福音書24:1-12)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/04/14

棕櫚の主日礼拝メッセージ「汚れた系図の主」マタイの福音書1章1-17節② 大頭眞一牧師 2025/04/13


マタイの福音書の冒頭の系図からの二回目です。前回はこの系図が、神さまの大きな愛の物語を語っていることを語りました。三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界。神さまはそんな世界の回復をアブラハムとその子孫を通して始めました。人となられた神、キリストがその愛の頂点です。キリストにいたる系図には四人の女性が含まれています。ユダヤの系図では異例。受難週の始まる今朝、そこにある神のお心を聴きます。

【ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み】

創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死ぬ。こんな場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死ぬ。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけた。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださいました。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことができます。私たちの罪を主の手に置き、そして祝福に変えていただきましょう。

【サルマがラハブによってボアズを生み】

ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。

神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。

【ボアズがルツによってオベデを生み】

ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死ぬ。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。

【ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み】

サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。

神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。

ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。

この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。



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2025/04/07

受難節第五主日礼拝メッセージ「ダビデの子である主」マタイの福音書1章1-17節① 大頭眞一牧師 2025/04/06


いよいよ三教会共働体制が始まりました。すべては、同じみ言葉をいっしょに聴くことからです。今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。私がよくお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を、神さまは始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデが強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われていたときには成しえなかった、たいせつな働きです。


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2025/03/31

受難節第四主日礼拝メッセージ「祈りの主」マタイの福音書6章5-8節 大頭眞一牧師 2025/03/30


マタイ6章1節から18節には神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることが語られています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「祈り」について聴きます。祈りとは神との愛の交わり。中世の教会指導者の言葉に「祈りとは神との友情を育むこと」があります。イエスご自身が最後の晩餐で私たちを「友」と呼んでくださったのですから。

【偽善者たちのようではなく】

主イエスは今日の箇所で、この祈りの心を教えてくださっています。決して「祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい」と言っておられるのではありません。神さまの友である私たちが、嘆きや喜びに出会うとき、溢れ出すのが祈りです。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。」(5a)と命じられているのもそのためです。「彼ら(偽善者たち)は人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」(5b)とあります。当時、祈ることは立派な信仰深いことだと見なされていました。ですから彼らは祈りを人に見せて尊敬されようとしました。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(5d)と、彼らはすでに自分の欲する報いを受けています。尊敬されているのです。けれども、これは神さまとの友情には関係ないことでした。

【人の目ではなく神のまなざしの中で】

主イエスは「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と教えられました。弟子たちをいつくしむように。先週は、レプタ2つのやもめのことを語りました。あのやもめは、思い煩いや人の目からの解放を喜びました。神さまもまた、やもめを喜んでくださいました。それは祈りも同じです。神さまと二人きりで、だれかと自分を比較することを忘れ、自分の祈りの善し悪しも忘れ、神さまに自分を捧げる、つまり、自分を与えてしまい、まかせてしまう、それが祈りです。喜びも悲しみも、神さまと共有して。そのとき私たちは確かに報いを受けます。私たちが切に願ってやまない、神との友情という報いを。

【くどくど祈るな】

主イエスは「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」(7a)ともおっしゃいました。祈りとは願い事を並べることではありません。それでは人間が「主」となって神さまは「しもべ」となってしまいます。偶像礼拝の問題はそこにあります。相手が真の神さまであっても、私たちがただ願い事を聞いていただくことだけを期待するなら、それは偶像礼拝に等しくなってしまうのです。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8)とあります。私たちは自分の必要、願いを知っていただくために、一言も祈る必要はありません。神さまはすでにご存じだからです。それも、私たちが願うよりも、もっと私たちに必要なものを、もっと私たちによきものをご存じで、与えてくださるのです。

【ゲッセマネの祈り】

思い出すのは、やはりゲッセマネ。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39b)とイエスは祈られました。イエスはその苦しみを、父に申し上げました。父がご存じであることを知った上で、そうしないではいられなくて。「神の子が泣きごとを言ったらどう思われるか」などということも、投げ捨てて。そうするときに、その苦しみの奥にあるほんとうの願いが輝きました。わたしの望みではなく、あなたの望みを、と。

私は思うのです。私たちは「祈りが足りない者で」とあいさつのように言ってはならない、と。祈りが足りようが足りまいが、私たちは神の友なのですから。「手鍋下げても」という言葉があります。私たちも貧しくなられた主イエスと旅を続けます。わずかな、それも神さまから預けられた賜物をもって。その喜びをする者は幸いです。


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2025/03/24

主日礼拝メッセージ「報いてくださる主」マタイの福音書6章1-4節 大頭眞一牧師 2025/03/23


マタイ5章から7章は「山上の説教」と呼ばれる箇所。6章は内容においても「山上の説教」の中心箇所といえます。少し間があきましたので、まずは5章をふりかえることにしましょう。

【隣人を愛し、敵を憎め】

5章は八つの「幸いの教え」によって始まりました。1節から12節には、「○○な者は幸いです。その人は◇◇からです。」と繰り返されています。私たちが「天の御国」つまり「神の支配」にすでに入れられている、だからあなたがたの中には新しい生き方、愛する生き方がもう始まっている、と祝福しているのでした。5章13節以下には、私たちが、地の塩、世の光であること、すなわち神の愛に満たされ、あふれて、世界へ愛を注ぎ出す私たちであることが語られています。そんな私たちは「律法学者やパリサイ人の義」にまさる者です。なぜなら律法を超えて、神の友として、神の愛に似た愛を注ぎ出すからです。

【心が変えられたからこそ】

6章に入って1節には「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とあります。これは6章1節から18節の見出しのような箇所、神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることを語っています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「施し」について聴きます。

【神からの報い】

善行について主イエスは、「人前で善行をしないように」(1a)、「そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」(1b)と戒め、「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」(2a)と誇張した語り口を用いて警告します。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(3)と警告が重ねられて。さらに「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(3)と念押しがされています。ここで、よくある誤解は、人前で善行をすると人からの評価は得られる、でも匿名でした善行は人には知られないが、神から報われるというもの。私もなんとなくそんなふうに思っていました。しかしそれだと、たとえば何かの働きを支援したいと思うときに「さあ、みなさん、この働きを支えましょう。私も献げます。ごいっしょに!」というような呼びかけは神さまに喜ばれないのだ、ということになってしまいます。それはなんだか変ですね。

【解き放たれた私たち】

「偽善者たち」は実は気の毒な人びとです。人の評価を気にする生き方に縛り付けられているからです。彼らにも必要が満たされないでいる人びとへのあわれみがないわけではないでしょう。けれどもあわれみよりも、そんな自分を他の人がどう見ているか、ちゃんと自分の善行を見てくれているか、そしてあなたはすばらしい人だと言ってくれるかどうかが、大きくなって、気になってしようがないのです。先週の「牧羊者」(教団CS教案誌)はルカ21章の「レプタ2つ」のやもめのたとえ。信愛でも天授ヶ岡でもこの箇所からメッセージが語られたことと思います。レプタ銅貨二つは、神殿でのこれ以下は献げてはならないとされていた最低献金額、250円ほどに相当するといいます。けれども、主イエスは、このやもめの心を、神さまは喜んだのだと教えます。このやもめの喜びにご自分の心を重ねるようにして。注意すべきはやもめは毎日生活費を献げていたのではないことです。それでは生きていけませんから。しかしその日、やもめから神への喜びがあふれました。明日はどうあれ、今、その喜びを注ぎ出さないではいられなくなりました。生活の不安もあったでしょうが、それも神さまの御手に投げ込んでしまいました。こんな少しの献金で恥ずかしいという思いからも解き放たれて。神さまはその解放の瞬間を喜ばれました。そしてなおなお愛を注ぎ込んでくださったにちがいありません。

【私たちの喜び】

ですから「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(4b)は、将来のことではなく、今すでに始まっている喜び。主イエスが与えてくださった新しい生き方が、神と人へほとばしる生き方の喜びのことです。そんな私たちは、人が見ていようが見ていまいが、そこから解き放たれています。変えられ、神さまとシンクロ(同期)する心で施すのです。


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2025/03/17

主日礼拝メッセージ「使徒信条④イエス・キリストを信ず」マタイの福音書1章20-21節 大頭眞一牧師 2025/03/16

 


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

【私たちの主】

イエス・キリストは主である!私はイエス・キリストが私の主であると信じる!これは私たちの信仰の核となる告白です。ピリピでの出来事です。

「そして安息日に、私たち(パウロやルカたち)は町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は『私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください』と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。」(使徒16:13-15)

ピリピ教会の誕生にはリディヤの「私は主を信じる」という信仰告白がありました。「主」とは、持ち主、飼い主。聖書は神を羊飼い、私たちを羊にたとえます。この羊飼いは羊を売って儲けることを考えません。羊を愛し、羊のために命を捨てる愛の主。ですから、リディヤは、そして私たちは、イエス・キリストを私たちを愛する主だと告白します。私たちのすべてが、私たちの罪も、弱さも、ふがいなさも、みな主イエスが担って引き受けてくださっている、そんな私たちはこのままで丸ごと抱きしめられている、と告白するのです。

【イエスという名】

宗教改革者ルターの1532年の説教の一部です。

「あなたは、このイエスという文字をどんなに大きく書き記してみてもそれで十分だということはありません。イエスというみ名のひとつひとつの文字でさえも、それだけで既に全世界にまさるとさえ言えるのです。ですから、よく学んでいただきたいことは、これがどんなに尊い名かということです。このみ名にまさるよいものは何もないのです。ただイエスというこのみ名だけです。なぜかといえば、この文字の中には初めから全ての人の罪が含まれてしまっているからです。全世界のすべての罪びとの罪がそこに詰め込まれ…悪魔でもいい、誰か人間でもいい、私に論争をいどむ時、いつもこう言うことさえできたらよいのだと思います。この幼な子の名はイエスだ。私がさいわいを得、罪から解放されたいと願うなら、ここに、ここにおられるこの幼な子のみ名はイエスと言われるのだ。このみ名のみを大いなるものとするのだ。このみ名をこころのうちに燃え立たしめ、光を放つものとすれば、それでよいのだ。」

このルターの言葉にアーメンということができる私たちは幸いです。たとえ誰が私たちの罪を責めたとしても、自分自身が自分を責めたとしても、打ち倒されてはなりません。人となられた神、イエスが私たちの罪を、弱さを、ふがいなさを引き受けてくださっているからです。そして「わたしが十字架に架けられたのだから、あなたは生きよ」とおっしゃってくださるからです。マタイに「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(1:20-21)

とあります。イエスはへブル語でヨシュア。ありふれた名前でしたが、その意味は「主なる神は救い」。まさにその名の通り、イエスは私たちの救いとなってくださいました。私たちは今朝もこのみ名をこころのうちに燃え立たしめ、光を放つものとします。

【キリストを信ず】

キリストはヘブライ語ではメシア、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書で油注がれるのは、王と祭司と預言者。ですから教会は「キリストの三職」という言葉でキリストのなさったことを語ってきました。キリストは勝利の王。悪の力を打ち砕きました。十字架と復活で。キリストは人を神にとりなす祭司。自らを供え物として献げて。そしてキリストは預言者。その言葉とわざで私たちに生き方を教えます。ただ教えるだけではありません。復活のいのちを注いで、私たちをすでにそのように歩かせてくださっています。


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2025/03/04

主日礼拝メッセージ「愛の主」マタイの福音書5章43-48節 大頭眞一牧師 2025/03/02


5章21節以下で主イエスは、旧約聖書の律法の教えを対比するかたちで「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と新しいいのちの生き方を語って来られました。今日はそのように語られてきた六つの生き方の最後、しめくくりです。

【隣人を愛し、敵を憎め】

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(43)という言葉は実際には律法にはありません。あるのは「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:18ab)です。そこには「敵を憎め」とはありませんから、これはユダヤ人たちが後で付け加えた言い伝えです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、そしてローマによる他国の過酷な支配が続く中で、その痛みがユダヤ人たちを同胞であるユダヤ人を愛し、圧制者である他国人を憎む思いに駆り立てたことは無理ないことです。けれどもそんな生き方は、憎しみの中に自分を閉じ込めて、憎しみの奴隷になる生き方。主イエスはそんな生き方から私たちを解き放つために、この世界に生まれてくださり、十字架に架かって、復活のいのちをもたらしてくださいました。

【よきサマリア人のたとえ】

主イエスがくださった新しい生き方を表しているのが「よきサマリア人のたとえ」。当時ユダヤ人にとってサマリア人は、ローマ人についで鼻持ちならない宗教的異端で、人種的には汚れた存在でした。イエスのたとえは、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人がユダヤ人を助ける、という驚くべきもの。同胞であるユダヤ人は仲間を助けようとはしなかったのに。そして「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37d)と結ぶのです。意図は明確です。主イエスの与える新しい生き方は、憎しみから私たちを解き放ちます。敵だと思っていた相手ももはや敵ではなくなります。自分を苦しめる人も、憎しみの奴隷となっている、痛みを抱えた、癒しを必要としている存在に見えてくるのです。

【天におられるあなたがたの父の子どもに】

敵を愛する!どうしてそんなことができるのでしょうか。正直に言えば、私自身、「あなたを愛します」と心から言うことのできない相手がいます。けれども「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(45)とあります。私たちはすでに神の子どもです。神の愛は私にも相手にも注がれています。あふれるほどに。そんな愛の中で、私はゆっくりと深いところから癒されつつあります。傷の痛みは和らぎ、傷そのものも回復しつつあります。私はやがて、その相手にも心から「私はあなたを愛します」と言えるようになります。急ぐ必要はありません。神さまの胸の中に身をゆだねるなら、あとは神さまが引き受けてくださいます。そうするうちに私たちにも神さまの心が沁みてきます。これまでもだんだん神さまのあわれみを知ってきた私たちです。さらに深く神さまのあわれみの心を知り、自分の心もそんな心に変えられていきます。もうそんな心は私たちのうちに始まっているのです。

【正しくない者にも】

それにしても「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、「正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45b)には引っかかるものがあるでしょう。「自分を愛してくれる人」(46a)だけでなく、愛してくれない人も愛しなさい、も、とてつもなく困難に思えます。カギは私たちがすでに神の子どもとされていることにあります。自分を愛してくれない人を、神はどのように見ておられるだろうか。父は子を十字架に送り、子は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34b)と叫ばれました。神は自分を愛さない者、自分を憎む者をあわれに思って、なおなお愛を注ぐのです。先ほどのCS紙芝居で語った通りです。そんな神の心が私たちにすでに与えられています。「いえ、私はゆるせません」と言う前に静かに自分の心に聞いてみてください。「ほんとうはゆるしたい。ゆるせたらいいのに」という思いの芽生えがあるなら、神がその芽を大きく育ててくださいます。

【キリスト者の完全】

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(48)はいつもお語りしている姿勢の完全。さらに知りたい方は「聖化の再発見・ジパング篇」に詳しいです。


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2025/02/24

主日礼拝メッセージ「解き放つ主」マタイの福音書5章38-42節 大頭眞一牧師 2025/02/23


しばらくぶりにマタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【目には目を】

イエスはここでも律法学者やパリサイ人たちの生き方とイエスと共に生きる新しい生き方を対比します。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」(38)が律法学者たち。これは私たちには残酷な復讐の奨励のように聞こえますが、そうではありません。放っておけばどんどんエスカレートしていく報復を、受けた被害と同程度にとどめ、そこから和解の道を模索させて、隣人との関係の回復を目指すのが律法の心、神の心でした。やはり律法はよきもの。神と人と共に歩く歩き方の教えなのです。

【左の頬も】

けれども実際には、そのような和解はほとんどもたらされません。私たちのよく知る通りです。だからこそ主イエスは律法の完成のために来てくださいました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。」(39a)は、イエスがもたらした新しい生き方の宣言。律法、すなわち神と人と共に歩く歩き方の完成の宣言です。

ここは主イエスが非暴力、暴力を用いないことを教えられた箇所と受け取られることが多いのですが、イエスはそれ以上の愛を語っています。向かい合っている人の右の頬を自分の右手で打つためには、右手の甲で打つことになります。これはユダヤ人にとっては、侮辱的な、軽蔑を込めた、人間としての尊厳を否定する打ち方でした。それは心に深い傷を負わせる打ち方。単なる肉体の暴力ではなく、人の心に対する暴力でした。そのように自分を侮辱する者に復讐するな、むしろ、そのように歪んでしまっている相手に対して、関係を断ち切らずに、その人の破れの回復のために心を傾けよ、と主イエスは命じたのでした。私たちは思います。いったいどうしたら、そんなことができるだろうか、と。もちろん、みなさんは、すでにその答えをみなさんのうちに持っています。それはキリスト。キリストは十字架で罪と死の力を滅ぼし、私たちを解き放ってくださいました。自分の内側に折れ曲がった私たちの心を!そして私たちの破れた心をつくろってくださいました。先日「時が満ちて(マルコ説教集1)」が出版されました。サインを頼まれることがあるのですが、今回は「満ちて、あふれて、注ぎ出せ」と書いています。すでに主イエスが私たちに愛と癒しを注いでくださっています。それがあふれ出しているのです。私たちから。

【上着も】

ついで主イエスは「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」(40)と語ります。告訴までして貧しい者からわずかな貸しを取り立てようとする者を神さまはどのように見ておられるだろうか、と思わされます。取り立てる人の心の貧しさに痛みを覚えておられるはず。私たちも彼らに新しい生き方を指し示したいと願います。律法には「もし、あなたとともにいる、わたしの民の貧しい人に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。利息を取ってはならない。もしも、隣人の上着を質に取ることがあれば、日没までにそれを返さなければならない。」(出エジプト22:25-26)とありますから、上着は奪われることのないもの。でも、神の民は上着を与えることに限らずできるだけのことをしたいのです。

【一緒に二ミリオン】

続いては「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。」(41)。一ミリオンは1,480メートル。ローマ帝国による「徴用」(国家が国民などを動員して、一定の仕事に就かせること)です。もちろん主イエスはどんな権力であってその体制に従えと言っておられるのではありません。当時、ユダヤには反ローマ感情がみなぎっていました。実際に主イエスの十字架の30年ほど後には、反乱がおこり、エルサレムが瓦礫に帰することになります。そんなユダヤの人びとに主イエスが語ったのは、ただローマ帝国からの解放ではありません。他国を支配し、あるいは支配された者たちが、力による現状変更を繰り返す、そんな生き方からの解放です。世界はまだその実現を見ていません。紛争が繰り返されています。けれども私たちは知っています。神の国、神の支配、新しい生き方はすでに私たちのうちに始まっていて、日に日に成長し、やがては世界を覆うのです。

【求める者に与えよ】

そして主イエスは「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。」(42)と今日の箇所を締めくくられました。マタイは「求めなさい。そうすれば与えられます。」(7章7節a)との主イエスの言葉も記しています。そこは神の国、神の支配、新しい生き方を記した箇所。だから私たちは私たちに求める者に背を向けません。不当な要求のように思えても、その心の破れ、彼らの本当の願いを聴き取ろうとします。主イエスは、彼らが知らないで求めている神の国を与えてくださいます。私たちも主イエスと共に働きます。主イエスが私たちを通して働いてくださるからです。


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2025/02/17

主日礼拝メッセージ「使徒信条③独り子なる主」ヨハネの福音書1章18節 大頭眞一牧師 2025/02/16

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

さて、信愛・天授ヶ岡・明野合同礼拝を感謝します。このたびは私の心筋梗塞とカテーテル手術のためにたいへんご心配をおかけしました。この通り、回復しつつあります。お祈りに感謝です。

【十字を切る】

キリスト教会の教理が確立していったのは4世紀から5世紀。特に「三位一体」と「キリストの神人二性」が核です。ギリシア正教やロシア正教といった正教会では、十字を切りますがそのときの手の形がこの二つの核を表しているとされます。写真をごらんください。三位一体については、よくお話ししている通りです。右の図は、みなさん馴染んでくださって、信愛の災害支援の募金箱や教会の入り口の黒板にも使っていただいています。父は神、子も神、聖霊も神にして一つ。それだけではなく、愛し合う三位の神の愛のダンスに私たちも招かれています。

【キリストの神人二性】

キリストは真の神にして、真の人。この教理は451年のカルケドン公会議で「われわれの主イエス・キリストは唯一同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人性においても完全である」と宣言されました。キリストは神。それゆえ十字架で罪と死の力を滅ぼし、私たちを神と生きるいのちへと解き放ちました。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあります。そしてキリストは人。それゆえキリストはすべての人のすべての痛みを、傷を、罪を、罪の結果を担って、私たちに神のかたちを回復してくださるのです。

【真の神、真の人】

カルケドン会議が開催されたのは、正統教理から逸脱する異端が現れたことに対処するためでした。神の教理は神秘ですから、私たちが理性で完全に理解することはできません。異端の多くは理性的に神を説明し切ろうとして発生しました。けれども、神を知ることは、神のあわれみを知ること。神のあわれみを知る者は、理性を超えた神を知ることができます。使徒信条の「独り子」は、イエスというお方の本質を表します。すなわち、神であるお方が、人となって生まれ、愛し、死んで、復活されたのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネの福音書1:18)とあります。イエスはその愛で神を見せた、神なのでした。カルケドンの結論は私たちの信仰を励まします。私たちはしばしば、痛みや傷に悲鳴をあげて、愛することを手放してしまいます。そして自分のような者はだめだとしゃがみ込みます。そんなとき、キリストは神であることを、たがいに思い出させ合いましょう。「だめだ」とうずくまるあなたを、キリストはすでに解き放ってくださっており、今も解き放ち続けておられるのだと。また私たちは、しばしば自分が大切にされなかったと感じて悲しくなります。あるいは、孤独を味わい苦しみます。でも忘れてはなりません。キリストは人として生き抜かれました。十字架に辱められることさえもいとわず。このお方が、私たちのすべての切なさを経験して、自分のこととして知ってくださっています。それは私たちを癒すため。教父たちは口をそろえて「(キリストに)担われなかったものは癒されない」と語りました。しかしキリストは人となり、私たちのすべての問題を担ってくださったのです。だから私たちのどんな苦しみも癒されていきます。仲間を通して。時間がかかったとしても。


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2025/02/03

主日礼拝メッセージ「『はい』と言わせる主」マタイの福音書5章33-37節 大頭眞一牧師 2025/02/02


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【誓うな】

イエスはここでも律法学者やパリサイ人たちの生き方とイエスと共に生きる新しい生き方を対比します。「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」(33)が律法学者たち。神に誓いを立てたら必ず実行せよと教えていました。これは十誡の第三誡「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」から出ています。「神に誓って返すからお金を貸して」といったように、神の名を利用して自分の利益を図ることはいつの時代もあること。十誡はそんな生き方を戒め、神と人を愛する生き方を指し示しています。

ところが律法の意図に反してイエスの時代の人びとは、神の名を用いない抜け道を用いていました。「天にかけて」(34c)「地にかけて」(35a)「エルサレムにかけて」(35c)「自分の頭にかけて」(36a)と。ですからイエスはこれらいっさいにノーと言いました。何に誓おうと、あるいは誓わなくても、私たちの言葉はすべて、神の前で発せられています。神が聴いておられるのです。私たちの言葉が愛に満ちた真実な言葉であることを願いながら。ですからコトはもはや「神に誓った」か「神以外のものに誓ったか」ではありません。なにかに誓って自分の利益を図ろうとする生き方が問われているのです。

【解き放つ主】

だからと言って、イエスは私たちに「言葉に気をつけなさい。うっかりしたことを言わないように、なるべく口数を少なくしなさい」と言っているのではありません。主イエスは「あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」(36b)と言います。つまり神は私たちの髪の毛一本さえも心にとめていてくださる。愛をもって。だから私たちの言葉の一つひとつが神と人を愛する言葉であるように、手に汗を握るようにして、期待し、聴いてくださっています。

「でも」と私たちは、ここでもたじろぎます。私の言葉にはたびたび愛が欠けている。しばしば怒りやねたみが含まれていて、聞く人に痛みや傷を与えてしまう。神が望まれるようには語っていない、生きていない、と。だから神が私の言葉を聴いておられることに恐れを感じると。

そのとき忘れてはならないことがあります。それはまさに、だからこそ主イエスは十字架に架かり復活してくださったこと。私たちから愛を奪う、心に受けた傷や痛みがあります。だから、だれかの言葉や態度が私たちを苦しめるとき、私たちの言葉は自分を守ろうとする言葉となって愛を失います。けれども主イエスは十字架でそんな傷や痛みをすべて、担(にな)ってくださいました。私たちを愛に欠けた生き方に引きずり込もうとする悪の力を十字架で滅ぼしてしまいました。たびたびの引用で恐縮ですが「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあります。もう私たちは解き放たれているのです。愛に向かって。そしてますます解き放たれていくのです。主イエスが注ぐ復活のいのちによって。

【それでは、誓約は?】

ここまでで、ひょっとしたら「あれ?」と思われた方がおられるかもしれません。教会ではさまざまな誓約が行われます。牧師の任命、役員やCS教師の任命などのときには、任命される人が誓約します。役員の任命の場合には教会員も誓約します。私たちが神の愛に応えて、仲間とともに神に仕えていくという約束です。すると、「それはイエスが『誓ってはならない』と言ったのに反しないか?」と思ってしまいますね。

けれども教会の誓約は、固く約束したからがんばって守る、というものではありません。そんながんばりが効果をもたらさないことはお互いよく知っている通りです。教会の誓約は、私たちの生き方をイエスの手の中に置くことです。イエスの手の中で、私たちがなお解き放たれ、愛に満たされ、そこからあふれ出す愛の言葉を語るようになることの確認なのです。


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2025/01/27

主日礼拝メッセージ「結ぶ主」マタイの福音書5章27-32節 大頭眞一牧師 2025/01/26


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。今日も、主イエスが十字架と復活によって与えてくださった自由を、そしてその自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【情欲を抱いて女を見る】

「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(28)は、このみ言葉を真剣に読んだ、特に若い男性たちを悩ませてきた箇所です。としごろになって女性に対してそういう思いを抱かない男性は少ないからです。しかも続く「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。」(29-30)を、情欲を抱いて見る目、情欲を解放する手と解釈して、絶望的な思いに駆られる人びとは絶えませんでした。

けれども、主イエスはほんとうにそんなことをお望みなのでしょうか。異性を見ても心を動かされない、そんな境地に達するように、と命じているのでしょうか。そうだとするなら、それは「姦淫を犯さないために、情欲を抱いて女を見ない」という安全柵をはりめぐらすことになってしまいます。それこそが、まさにイエスが律法学者やパリサイ人たち決定的にちがうところだったはずなのに。

【イエスの願い】

そもそも、聖書には男女の性的関係を汚れたことや罪とみなす考え方はありません。また今回の発端となった「姦淫してはならない」という第七戒の「姦淫」は、結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と関係を持つことです。つまり、ここで主イエスが語っておられるのは、「性的な欲望を持つことは罪だ」ではありません。イエスの願いは「自分の夫婦の関係をたいせつにしなさい。他の人の夫婦の関係もたいせつにしなさい」なのです。実際に他の聖書には「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」を「情欲を抱いて他人の妻を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」と訳しているものもあり、こちらの方がイエスの願いをよく表していると思います。

ですからイエスの願いは、ただ姦淫さえしなければよい、というのではありません。イエスの願いは、結婚が、夫婦の関係が、ほんとうにきよい、よいものであること。たがいに心から、たいせつにし合う、その結婚を通して世界に愛が回復されていくことです。私たちはみんな、これまで生きてきた中で傷ついています。その傷を打ち明け合い、共感し合い、神さまに差し出すことを励まし合う、そんな結婚、そんな夫婦であったなら、と思わされます。そのような癒しは、その夫婦だけにとどまらないでしょう。癒された夫婦を通して、世界へと及んでいきます。

【イエスの恵みの中で】

「目をえぐり出して捨てよ、手を切って捨てよ」もまた、私たちを脅かす言葉ではありません。イエスはたがいの関係を「姦淫」によって損なうことがないように、とおっしゃっているのです。「あなたにとって、パートナーはこれ以上のない祝福であり、わたしからのプレゼントだ。だから、たがいをたいせつにしなさい。ふたりの関係を脅かす姦淫への誘惑よりも。わたしがあなたがたを抱きしめ、わたしの胸の中でそうさせてあげよう」と。

でも、私たちはそんなことを全うできるだろうか、と、たじろぎます。そこで思い出すべきことがあります。それは、いつも愛が欠けてしまう私たち。そんな私たちだからこそ、主イエスが十字架に架かってくださったこと。私たちの傷を、私たちの傷ついた関係は、主イエスの恵みの中に置かれています。だから、主イエスは私たちを赦し、愛を注ぎ、何度でも何度でも何度でも、やり直させてくださるのです。昨日よりは今日、今日よりは明日、愛することに解き放たれて。

【すべての関係が】

私たちのうちには独身の人もいます。結婚していたのだけれども、生別や死別を経験した人もいます。それらの方がたも、主イエスは招いています。「あなたにとって、あなたの周りの人びとはこれ以上のない祝福であり、わたしからのプレゼントだ。だから、たがいをたいせつにしなさい。」と。その招きに応じるときに、この世界に愛が回復していきます。少しずつゆっくりと。目には見えなくても確実に。


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2025/01/14

主日礼拝メッセージ「和解の主」マタイの福音書5章21-26節 大頭眞一牧師 2025/01/12


マタイ5章から7章の山上の説教の続きです。先週は、私たちには律法学者やパリサイ人たちにまさる義が与えられていると語りました。それはイエス・キリストが与える義。律法学者たちは、いたずらに神を恐れ、その怒りをかうことがないようにと、律法のまわりに何重にも安全柵を張り巡らし、自らもその中に閉じ込められていました。けれどもイエス・キリストは十字架の上で、私たちの過去・現在・未来の救いをなしとげてくださいました。私たちを神と人を愛する自由へと解き放ってくださったのでした。今日の箇所以降で、主イエスは、その自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにするかを語ってくださいました。聴きましょう。解き放たれましょう。ますます。

【殺してはならない】

律法には「殺してはならない。」とあります。律法の中心である十戒の第六戒です。けれどもこの律法があっても殺人はなくなりませんでした。今も。殺すことがない世界を、という神さまの願いはまだ、実現していないのです。主イエスはその実現のために来られました。神であるのに人となって。

けれども主イエスは、律法学者やパリサイ人たちとはちがって、律法のまわりに安全柵を張り巡らすことはしません。外から私たちを規制するのではなく、私たちの内側から心を変えてくださったのです。神であるのに十字架に架けられて。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあるとおり、罪と死の力を滅ぼして、私たちを解き放ってくださいました。だから私たちは愛することができます。

【和解の主】

主イエスは、神の心を知らない律法学者やパリサイ人たちに心を痛めました。だから私たちに神の心、主イエスの心を与えてくださいました。ただ殺さなければ、それでいいというのではありません。殺意には理由があるでしょう。相手の存在を消し去らないではいられないほどの、恐れや痛み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解をもたらす和解の主。癒しの主。

「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののしりたい思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よくご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味わってくださったからです。よくよく分かった上で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」(25)と。

主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合うことを願っておられます。実現してくださいます。

【復活の主】

私たちは、どうしたらそんなことができるのだろうか、と思ってしまいます。相手を取り除かなければ、自分が生きていけないような、どうにかなってしまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解することなどできるだろうか、と。思い出すのはカイン。アベルを妬んだカインに神さまは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」(創世記4:7c)と語りかけます。カインは罪を治めることができませんでした。けれども、私たちはカインとはちがいます。なぜなら罪の力である悪魔は滅ぼされたからです。そして私たちには、主イエスのいのちが注がれているからです。愛するいのちが。神であるから復活したことによって。

どうか、私たちには神の心、神の願い、自分に痛みを与える者との和解を願う心が、すでに与えられていることを忘れないでください。そしてさらに、その和解を実現することのできるいのちが始まっていることも。

私たちに敵対し、私たちに痛みを与える者たち。彼らもまた痛みに苦しむ人びとです。双方が痛んでいる手詰まりの中で、どちらかが自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開かれていきます。私たちにはできないけれども、主イエスがそうさせてくださいます。



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2025/01/07

主日礼拝メッセージ「律法を成就する主」マタイの福音書5章17-20節 大頭眞一牧師 2025/01/05


明けましておめでとうございます。今年も、マタイ5章から7章の山上の説教から、続いて聴きます。

【一つでも破り?】

年末感謝礼拝で、「あなたがたは世の光です。」という主イエスの宣言を聴きました。何人かの方がたから「励まされた。うれしくなった」という声がありました。足りない私たちだけれども、すでに世の光とされていて、ますます主イエスが輝きを増してくださる、というのですから躍り上がりたいような喜びです。

ところがそんな方がたが、今日の箇所を読んでがっかりなさらないか、少し心配です。ここには「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます」(19a)とか「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)といった、とてつもなく高い基準が要求されているように見えるからです。

【律法学者たちの義】

けれども、もちろん、主イエスは私たちを追い詰めるお方ではありません。律法学者やパリサイ人の義とありますが、彼らは主イエスからしばしば誤りを指摘されていたことを忘れてはなりません。

いつも申し上げることですが、「まず出エジプト、そしてシナイ山」。つまり、神さまは律法を守ったからイスラエルを救ったのではありません。なにもわからない、おそらくはエジプトで偶像礼拝にどっぷり浸かっていたイスラエル。神さまは、ただあわれに思って彼らを救い出されました。それが出エジプト。その後で、彼らをシナイ山に導き、神と共に歩く歩き方を教えました。それが律法です。それは神さまが、アブラハムとその子孫を通して、世界のすべての人びとを祝福するため。世界の破れを回復するパートナーとして、イスラエルを育てるためでした。

けれども、バビロン捕囚とそれに続く諸外国の支配の中で、律法学者やパリサイ人といったユダヤの宗教指導者たちは、律法を誤解するようになってしまいました。彼らは、律法を破れば、神さまの怒りをかう。すると他国の圧政という罰が続く、と考えたのです。麦畑事件というのがあります。安息日に空腹だったイエスの弟子たちが、麦の穂を摘んで、手でもみながら食べました。するとパリサイ人たちが「麦をもむのは脱穀という労働だから、安息日には禁じられている」と咎めたのです。イエスは「人の子は安息日の主です。」(ルカ6:5)と言います。世界の回復のために、イエスと働く弟子たちは、まさに律法の真髄を行っているのです。それを咎めるのは、神さまの心がまったく分からなくなってしまっているから。律法学者やパリサイ人たちには、神がどれほど世界の破れを痛み、その回復を願っておられるかがわかりません。まるで、神さまをほんの少しの規則からの逸脱もゆるさない、ただ厳格なお方だと思っていたのです。そして実際の律法よりも、さらに厳格な安全柵をめぐらすようにして、その中に自分たちを閉じ込めたのです。

【主イエスのまされる義】

けれども主イエスは私たちの心を、神さまを愛することに解き放ち、まわりの人びとを愛することに解き放ちます。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20b)は、決してさらに厳格な安全柵を意味するのではありません。イエス・キリストの義のことです。主イエスは、私たちの救い主。大みそかの「今朝の黙想」では、「イエスは私たちの過去・現在・未来の救い主」と発信しました。人となり、十字架に架けられ、復活した神である主イエスの義は、恐れによって神の怒りを免れようとする律法学者の義にはるかにまさっています。主イエスは私たちに新しいいのちを注ぎ、あふれ出すまで愛を注いでくださるからです。

ある方が、「メッセージで、『傷つけられても、傷つけた側の心の破れを繕う私たち』と聞きました。でも私にはそんな大きな心がないです」と思いを打ち明けてくださいました。それは私も同じです。けれども、それでも、主イエスのまされる義は私たちに与えられています。受けた傷が深いときには、相手の破れを繕うどころか、相手の顔を見るのもいやなものです。けれども、そのことを悲しみ、それでも相手の破れを繕うことができたらよいのに、と願うあなたは確かに、律法学者やパリサイ人の義にまされる義に生きています。世の光なのです。主イエスは、そんな私たちをなおなお癒してくださいます。今、この礼拝の中で、またこの年を通じて。私たちの小さな光を喜び、たいせつに時間をかけて、じっくりと育ててくださいます。



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