2025/03/31

受難節第四主日礼拝メッセージ「祈りの主」マタイの福音書6章5-8節 大頭眞一牧師 2025/03/30


マタイ6章1節から18節には神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることが語られています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「祈り」について聴きます。祈りとは神との愛の交わり。中世の教会指導者の言葉に「祈りとは神との友情を育むこと」があります。イエスご自身が最後の晩餐で私たちを「友」と呼んでくださったのですから。

【偽善者たちのようではなく】

主イエスは今日の箇所で、この祈りの心を教えてくださっています。決して「祈りは大事だから絶えず熱心に祈りなさい」と言っておられるのではありません。神さまの友である私たちが、嘆きや喜びに出会うとき、溢れ出すのが祈りです。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。」(5a)と命じられているのもそのためです。「彼ら(偽善者たち)は人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」(5b)とあります。当時、祈ることは立派な信仰深いことだと見なされていました。ですから彼らは祈りを人に見せて尊敬されようとしました。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(5d)と、彼らはすでに自分の欲する報いを受けています。尊敬されているのです。けれども、これは神さまとの友情には関係ないことでした。

【人の目ではなく神のまなざしの中で】

主イエスは「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と教えられました。弟子たちをいつくしむように。先週は、レプタ2つのやもめのことを語りました。あのやもめは、思い煩いや人の目からの解放を喜びました。神さまもまた、やもめを喜んでくださいました。それは祈りも同じです。神さまと二人きりで、だれかと自分を比較することを忘れ、自分の祈りの善し悪しも忘れ、神さまに自分を捧げる、つまり、自分を与えてしまい、まかせてしまう、それが祈りです。喜びも悲しみも、神さまと共有して。そのとき私たちは確かに報いを受けます。私たちが切に願ってやまない、神との友情という報いを。

【くどくど祈るな】

主イエスは「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」(7a)ともおっしゃいました。祈りとは願い事を並べることではありません。それでは人間が「主」となって神さまは「しもべ」となってしまいます。偶像礼拝の問題はそこにあります。相手が真の神さまであっても、私たちがただ願い事を聞いていただくことだけを期待するなら、それは偶像礼拝に等しくなってしまうのです。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8)とあります。私たちは自分の必要、願いを知っていただくために、一言も祈る必要はありません。神さまはすでにご存じだからです。それも、私たちが願うよりも、もっと私たちに必要なものを、もっと私たちによきものをご存じで、与えてくださるのです。

【ゲッセマネの祈り】

思い出すのは、やはりゲッセマネ。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39b)とイエスは祈られました。イエスはその苦しみを、父に申し上げました。父がご存じであることを知った上で、そうしないではいられなくて。「神の子が泣きごとを言ったらどう思われるか」などということも、投げ捨てて。そうするときに、その苦しみの奥にあるほんとうの願いが輝きました。わたしの望みではなく、あなたの望みを、と。

私は思うのです。私たちは「祈りが足りない者で」とあいさつのように言ってはならない、と。祈りが足りようが足りまいが、私たちは神の友なのですから。「手鍋下げても」という言葉があります。私たちも貧しくなられた主イエスと旅を続けます。わずかな、それも神さまから預けられた賜物をもって。その喜びをする者は幸いです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/24

主日礼拝メッセージ「報いてくださる主」マタイの福音書6章1-4節 大頭眞一牧師 2025/03/23


マタイ5章から7章は「山上の説教」と呼ばれる箇所。6章は内容においても「山上の説教」の中心箇所といえます。少し間があきましたので、まずは5章をふりかえることにしましょう。

【隣人を愛し、敵を憎め】

5章は八つの「幸いの教え」によって始まりました。1節から12節には、「○○な者は幸いです。その人は◇◇からです。」と繰り返されています。私たちが「天の御国」つまり「神の支配」にすでに入れられている、だからあなたがたの中には新しい生き方、愛する生き方がもう始まっている、と祝福しているのでした。5章13節以下には、私たちが、地の塩、世の光であること、すなわち神の愛に満たされ、あふれて、世界へ愛を注ぎ出す私たちであることが語られています。そんな私たちは「律法学者やパリサイ人の義」にまさる者です。なぜなら律法を超えて、神の友として、神の愛に似た愛を注ぎ出すからです。

【心が変えられたからこそ】

6章に入って1節には「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」とあります。これは6章1節から18節の見出しのような箇所、神の支配に生きる者たちの心が、動機が、変えられていることを語っています。2節以下には「善行」の例として、施し、祈り、断食があげられています。今日は「施し」について聴きます。

【神からの報い】

善行について主イエスは、「人前で善行をしないように」(1a)、「そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」(1b)と戒め、「施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」(2a)と誇張した語り口を用いて警告します。「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(3)と警告が重ねられて。さらに「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(3)と念押しがされています。ここで、よくある誤解は、人前で善行をすると人からの評価は得られる、でも匿名でした善行は人には知られないが、神から報われるというもの。私もなんとなくそんなふうに思っていました。しかしそれだと、たとえば何かの働きを支援したいと思うときに「さあ、みなさん、この働きを支えましょう。私も献げます。ごいっしょに!」というような呼びかけは神さまに喜ばれないのだ、ということになってしまいます。それはなんだか変ですね。

【解き放たれた私たち】

「偽善者たち」は実は気の毒な人びとです。人の評価を気にする生き方に縛り付けられているからです。彼らにも必要が満たされないでいる人びとへのあわれみがないわけではないでしょう。けれどもあわれみよりも、そんな自分を他の人がどう見ているか、ちゃんと自分の善行を見てくれているか、そしてあなたはすばらしい人だと言ってくれるかどうかが、大きくなって、気になってしようがないのです。先週の「牧羊者」(教団CS教案誌)はルカ21章の「レプタ2つ」のやもめのたとえ。信愛でも天授ヶ岡でもこの箇所からメッセージが語られたことと思います。レプタ銅貨二つは、神殿でのこれ以下は献げてはならないとされていた最低献金額、250円ほどに相当するといいます。けれども、主イエスは、このやもめの心を、神さまは喜んだのだと教えます。このやもめの喜びにご自分の心を重ねるようにして。注意すべきはやもめは毎日生活費を献げていたのではないことです。それでは生きていけませんから。しかしその日、やもめから神への喜びがあふれました。明日はどうあれ、今、その喜びを注ぎ出さないではいられなくなりました。生活の不安もあったでしょうが、それも神さまの御手に投げ込んでしまいました。こんな少しの献金で恥ずかしいという思いからも解き放たれて。神さまはその解放の瞬間を喜ばれました。そしてなおなお愛を注ぎ込んでくださったにちがいありません。

【私たちの喜び】

ですから「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(4b)は、将来のことではなく、今すでに始まっている喜び。主イエスが与えてくださった新しい生き方が、神と人へほとばしる生き方の喜びのことです。そんな私たちは、人が見ていようが見ていまいが、そこから解き放たれています。変えられ、神さまとシンクロ(同期)する心で施すのです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/17

主日礼拝メッセージ「使徒信条④イエス・キリストを信ず」マタイの福音書1章20-21節 大頭眞一牧師 2025/03/16

 


我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン

【私たちの主】

イエス・キリストは主である!私はイエス・キリストが私の主であると信じる!これは私たちの信仰の核となる告白です。ピリピでの出来事です。

「そして安息日に、私たち(パウロやルカたち)は町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まって来た女たちに話をした。リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。そして、彼女とその家族の者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は『私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊まりください』と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。」(使徒16:13-15)

ピリピ教会の誕生にはリディヤの「私は主を信じる」という信仰告白がありました。「主」とは、持ち主、飼い主。聖書は神を羊飼い、私たちを羊にたとえます。この羊飼いは羊を売って儲けることを考えません。羊を愛し、羊のために命を捨てる愛の主。ですから、リディヤは、そして私たちは、イエス・キリストを私たちを愛する主だと告白します。私たちのすべてが、私たちの罪も、弱さも、ふがいなさも、みな主イエスが担って引き受けてくださっている、そんな私たちはこのままで丸ごと抱きしめられている、と告白するのです。

【イエスという名】

宗教改革者ルターの1532年の説教の一部です。

「あなたは、このイエスという文字をどんなに大きく書き記してみてもそれで十分だということはありません。イエスというみ名のひとつひとつの文字でさえも、それだけで既に全世界にまさるとさえ言えるのです。ですから、よく学んでいただきたいことは、これがどんなに尊い名かということです。このみ名にまさるよいものは何もないのです。ただイエスというこのみ名だけです。なぜかといえば、この文字の中には初めから全ての人の罪が含まれてしまっているからです。全世界のすべての罪びとの罪がそこに詰め込まれ…悪魔でもいい、誰か人間でもいい、私に論争をいどむ時、いつもこう言うことさえできたらよいのだと思います。この幼な子の名はイエスだ。私がさいわいを得、罪から解放されたいと願うなら、ここに、ここにおられるこの幼な子のみ名はイエスと言われるのだ。このみ名のみを大いなるものとするのだ。このみ名をこころのうちに燃え立たしめ、光を放つものとすれば、それでよいのだ。」

このルターの言葉にアーメンということができる私たちは幸いです。たとえ誰が私たちの罪を責めたとしても、自分自身が自分を責めたとしても、打ち倒されてはなりません。人となられた神、イエスが私たちの罪を、弱さを、ふがいなさを引き受けてくださっているからです。そして「わたしが十字架に架けられたのだから、あなたは生きよ」とおっしゃってくださるからです。マタイに「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。

「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(1:20-21)

とあります。イエスはへブル語でヨシュア。ありふれた名前でしたが、その意味は「主なる神は救い」。まさにその名の通り、イエスは私たちの救いとなってくださいました。私たちは今朝もこのみ名をこころのうちに燃え立たしめ、光を放つものとします。

【キリストを信ず】

キリストはヘブライ語ではメシア、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書で油注がれるのは、王と祭司と預言者。ですから教会は「キリストの三職」という言葉でキリストのなさったことを語ってきました。キリストは勝利の王。悪の力を打ち砕きました。十字架と復活で。キリストは人を神にとりなす祭司。自らを供え物として献げて。そしてキリストは預言者。その言葉とわざで私たちに生き方を教えます。ただ教えるだけではありません。復活のいのちを注いで、私たちをすでにそのように歩かせてくださっています。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/03/04

主日礼拝メッセージ「愛の主」マタイの福音書5章43-48節 大頭眞一牧師 2025/03/02


5章21節以下で主イエスは、旧約聖書の律法の教えを対比するかたちで「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」と新しいいのちの生き方を語って来られました。今日はそのように語られてきた六つの生き方の最後、しめくくりです。

【隣人を愛し、敵を憎め】

「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(43)という言葉は実際には律法にはありません。あるのは「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:18ab)です。そこには「敵を憎め」とはありませんから、これはユダヤ人たちが後で付け加えた言い伝えです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、そしてローマによる他国の過酷な支配が続く中で、その痛みがユダヤ人たちを同胞であるユダヤ人を愛し、圧制者である他国人を憎む思いに駆り立てたことは無理ないことです。けれどもそんな生き方は、憎しみの中に自分を閉じ込めて、憎しみの奴隷になる生き方。主イエスはそんな生き方から私たちを解き放つために、この世界に生まれてくださり、十字架に架かって、復活のいのちをもたらしてくださいました。

【よきサマリア人のたとえ】

主イエスがくださった新しい生き方を表しているのが「よきサマリア人のたとえ」。当時ユダヤ人にとってサマリア人は、ローマ人についで鼻持ちならない宗教的異端で、人種的には汚れた存在でした。イエスのたとえは、ユダヤ人から蔑まれていたサマリア人がユダヤ人を助ける、という驚くべきもの。同胞であるユダヤ人は仲間を助けようとはしなかったのに。そして「あなたも行って、同じようにしなさい。」(ルカ10:37d)と結ぶのです。意図は明確です。主イエスの与える新しい生き方は、憎しみから私たちを解き放ちます。敵だと思っていた相手ももはや敵ではなくなります。自分を苦しめる人も、憎しみの奴隷となっている、痛みを抱えた、癒しを必要としている存在に見えてくるのです。

【天におられるあなたがたの父の子どもに】

敵を愛する!どうしてそんなことができるのでしょうか。正直に言えば、私自身、「あなたを愛します」と心から言うことのできない相手がいます。けれども「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(45)とあります。私たちはすでに神の子どもです。神の愛は私にも相手にも注がれています。あふれるほどに。そんな愛の中で、私はゆっくりと深いところから癒されつつあります。傷の痛みは和らぎ、傷そのものも回復しつつあります。私はやがて、その相手にも心から「私はあなたを愛します」と言えるようになります。急ぐ必要はありません。神さまの胸の中に身をゆだねるなら、あとは神さまが引き受けてくださいます。そうするうちに私たちにも神さまの心が沁みてきます。これまでもだんだん神さまのあわれみを知ってきた私たちです。さらに深く神さまのあわれみの心を知り、自分の心もそんな心に変えられていきます。もうそんな心は私たちのうちに始まっているのです。

【正しくない者にも】

それにしても「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、「正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45b)には引っかかるものがあるでしょう。「自分を愛してくれる人」(46a)だけでなく、愛してくれない人も愛しなさい、も、とてつもなく困難に思えます。カギは私たちがすでに神の子どもとされていることにあります。自分を愛してくれない人を、神はどのように見ておられるだろうか。父は子を十字架に送り、子は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34b)と叫ばれました。神は自分を愛さない者、自分を憎む者をあわれに思って、なおなお愛を注ぐのです。先ほどのCS紙芝居で語った通りです。そんな神の心が私たちにすでに与えられています。「いえ、私はゆるせません」と言う前に静かに自分の心に聞いてみてください。「ほんとうはゆるしたい。ゆるせたらいいのに」という思いの芽生えがあるなら、神がその芽を大きく育ててくださいます。

【キリスト者の完全】

「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(48)はいつもお語りしている姿勢の完全。さらに知りたい方は「聖化の再発見・ジパング篇」に詳しいです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)