2025/04/21

イースター礼拝メッセージ「インマヌエルの主」マタイの福音書1章18-25節 大頭眞一牧師 2025/04/20


イエスの受胎と誕生の次第が語られます。神が人となりました。「特殊性のスキャンダル」という言葉があります。神学用語です。本来、神は普遍的。どこにでも、いつでもいる。ところが神は紀元1世紀のユダヤでユダヤ人となることを選びました。特定の時に、特定の特殊な場所にいることを選んだのです。スキャンダルとは不祥事や醜聞。神が特殊性を選んだときに、そうでなければ起こらなかったはずのスキャンダルが発生しました。神がさげすまれ、打ちたたかれて、処刑されるという。神が恥辱を味わったのです。もちろん、それは愛ゆえのスキャンダル。私たちのためのスキャンダルでした。私たちをほうっておくことができないゆえの。

【ヨセフのスキャンダル】

ルカは受胎告知をマリアの視点で語ります。マリアに天使が現れます。一方、マタイはマリアの夫ヨセフの視点で語ります。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18a)と。これもまたスキャンダル。婚約者マリアのおなかが大きくなっていく。ヨセフは裏切られたと思ったでしょう。思い描いていたマリアとの幸せな生活が音を立てて崩れ落ちるように思い、失望や悲しみ、恥辱に力が抜けてしまったでしょう。神が人となることは、神にとってスキャンダルだっただけではなく、ヨセフにとってもスキャンダルだったのです。

【スキャンダルの中の正しさ】

「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)。ここに神の求める正しさが鮮やかです。当時は婚約中の女性が他の男性と関係を持つことは姦淫の罪とされていました。律法を字義通りに解釈すれば、マリアの妊娠を告発し、石打ちにはやる人びとの手に渡すことも可能です。けれども、ヨセフはマリアとの婚約を密かに解消しようとしました。それによってマリアを守ろうとしました。マリアとは別れるけれども、生涯マリアの秘密を口に出すことなく生きて行こうと決心したのでした。このあわれみは神の目に正しいことでした。

【スキャンダルを超える祝福】

神さまはヨセフの正しさを喜びながらも、ヨセフの前にある驚くべき祝福に目を開かせます。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20b-21)と。ヨセフはそうしました。マリアを妻としました。「子を産むまでは彼女を知ることはなかった。」(25a)とありますから、マリアが無事、子どもを出産できるように心を配りました。そしてその子の名をイエス、すなわち「神は救い」とつけたのでした。こうして神が人となり、世界に救いがもたらされたのでした。スキャンダルを超える祝福が。

【イエス・キリストの系図】

ヨセフは、マリアを受け入れました。子なる神であるイエスが無事、生まれることができるように心を配りました。人から心を配られる神、人から心配される神とは!ヨセフは、後には二人を守るためにエジプトに逃げました。こんな苦労は断ろうと思えば断ることもできたのです。けれどもヨセフは神と共に働くことを選びました。以前、マタイ1章の系図はヨセフの系図であって、イエスの血統図ではないと語りました。確かにそうなのですが、それでもマタイは「イエス・キリストの系図」と記しています。イエスの誕生にはヨセフの献身が必要でした。神は救い主の誕生をヨセフというひとりの男の決断にゆだねました。(マリアをとおして)聖霊とヨセフによって主イエスは誕生しました。それゆえ神はヨセフの系図をイエス・キリストの系図と呼んでくださったのでした。

【神が私たちとともにおられる】

イエスはイムマヌエル。神が私たちとともにおられる、という意味です。そう聞くと、私たちは「神がいつも一緒にいて自分を守り、助けてくださる」と思います。けれどもヨセフは共におられる神の要請を聞きました。「わたしのひとり子をあなたにゆだねる。マリアを受け入れてほしい。聖霊によって宿ったこの子をあなたの子として受け入れ、この子の父となってほしい。そのための苦しみを引き受けてほしい。世界の救いのために」と。そして引き受けました。ある牧師は「足跡」という有名な詩を思いめぐらして言います。「あの詩は、人生の危機のときに主が自分を背負ってくださったと語る。たしかにあの詩は『神が私たちとともにおられる』というイムマヌエルの一面をよくあらわしている。しかしこれだけではイムマヌエルの恵みの一面しかとらえることができない。神は時として、私たちに『わたしを背負ってくれ」とおっしゃる。ヨセフはそういう神の語りかけを聞き、マリアとイエスを背負った。神を背負ったのだ。」と。それはヨセフが神の心を知ったから。神の心に自分の心を重ねることができたからでした。私たちもすでにそのようなものとされています。そしてますますさらに。喜びのうちに。



(CSメッセージ「よみがえられたキリスト」ルカの福音書24:1-12)



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/04/14

棕櫚の主日礼拝メッセージ「汚れた系図の主」マタイの福音書1章1-17節② 大頭眞一牧師 2025/04/13


マタイの福音書の冒頭の系図からの二回目です。前回はこの系図が、神さまの大きな愛の物語を語っていることを語りました。三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界。神さまはそんな世界の回復をアブラハムとその子孫を通して始めました。人となられた神、キリストがその愛の頂点です。キリストにいたる系図には四人の女性が含まれています。ユダヤの系図では異例。受難週の始まる今朝、そこにある神のお心を聴きます。

【ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み】

創世記38章。タマルはユダの長男エルの妻でした。ところがエルは子を残さずに死ぬ。こんな場合、弟が兄の妻と結婚して子を残さなければならなかったのですが、次男のオナンはそれを拒んで死ぬ。ユダは二人の息子の死はタマルのせいだと考え、三男のシェラとタマルを結婚させませんでした。するとタマルは遊女の装いで舅(しゅうと)であるユダに近づいて子をもうけた。なんとも言い難い出来事です。義務を放棄したオナンや、タマルの権利を奪ったユダもさることながら、生きていくためとはいえ、タマルが周到に計画して舅と関係を持ったことにも痛みに満ちた世界の破れがあります。けれども神さまはタマルの名を祝福の系図に加えました。大きな破れにもよきことを造り出し、救い主イエスの誕生への道筋としてくださいました。私たちも多くの罪と恥を重ねてきました。けれども、神さまはそんな破れにさえ祝福を造り出すことができます。私たちの罪を主の手に置き、そして祝福に変えていただきましょう。

【サルマがラハブによってボアズを生み】

ヨシュア記2章。エジプトを脱出したイスラエルは荒野の40年を経て、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ります。そこで最初に攻め落としたのがエリコ。手引きしたのが遊女ラハブでした。ラハブはカナンの先住民、イスラエルから言えば異邦人の異教徒。ですから、イエスの系図にラハブが入っていることは驚くべきことです。イエスの時代のユダヤ人が犬と呼んでいた異教徒の、しかも遊女なのですから。

神にとって祝福を造り出すことができないような汚れは存在しないことを思い知らされます。神が聖いとおっしゃる人を汚れていると言ってはならないのです。すべての人を、文字通りすべての人を、神はご自分の子となさいます。そうしないではいられないからです。この驚きを受け入れましょう。

【ボアズがルツによってオベデを生み】

ルツ記。飢饉を逃れてベツレヘムからモアブに移り住んだナオミの息子がモアブの女性ルツと結婚した後、死ぬ。ナオミはルツを嫁の立場から解放しようとするのですが、ルツはナオミを離れずベツレヘムに来てボアズと再婚して子をもうけました。ボアズは異邦の遊女ラハブの子ですから異邦人とユダヤ人のハーフ。ボアズとルツの子はユダヤ人1/4、異邦人3/4ということになります。それなのにイエスの時代のユダヤ人たちが純血を誇ったのはこっけいです。神はイエスの純血ならざる系図は、神さまの意志の系図。すべての民族を祝福しようとする意志の系図。アブラハムからイエスまで二千年にわたって、神さまは世界の回復を願い続けてくださいました。そして、今も。

【ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み】

サムエル記11章12章。ダビデのとんでもない罪は、みなさんよくご存じの通りです。私たちでさえも赦しかねるような罪です。それなのに神はダビデをこの系図に加えました。ダビデの罪をはっきりと記しながらも。

神さまが私たちを受け入れるということが鮮やかです。神は私たちの罪に目をつぶって受け入れるのではありません。そうだとすれば、私たちの罪の原因となった傷や罪の結果である傷は癒されないままでしょう。神はそんな傷を正面から扱います。だから、人となられた神、イエス・キリストがすべての人のすべての傷を担って、十字架に架かってくださったのです。

ダビデほどではないにせよ、この系図に名前をあげられた一人一人は罪ある人びとです。そのすべての罪と傷がイエス・キリストに流れ込み、受け止められ、十字架に担われて、癒されました。私たちもこの系図に連なる一人。だから私たちの罪と傷もイエス・キリストに担われて、癒されました。今も癒されつつあり、さらに癒されていきます。

この説教を「汚れた系図」と題したのは、そのうちの数人が汚れているからではありません。すべての人、さらにいうなら世界全体が罪の力に汚されているからです。罪の力はとりわけ弱者に破れを押し付けます。マイノリティである女性、異邦人、寡婦たちは、子孫を残すための手段や、性的欲望の対象として扱われ、あるいは収入の道を閉ざされた結果遊女にならざるを得なかったりしました。けれども主イエスは汚れた系図を恥じることをなさいません。「これがわたしの系図だ。このすべての人びとの痛みはわたしの痛みであり、わたしはそこに回復をもたらす。あなたがたと共に」と今朝も招いてくださっています。招きに応じたお互いを、私たちは今朝も喜び合います。



(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)


2025/04/07

受難節第五主日礼拝メッセージ「ダビデの子である主」マタイの福音書1章1-17節① 大頭眞一牧師 2025/04/06


いよいよ三教会共働体制が始まりました。すべては、同じみ言葉をいっしょに聴くことからです。今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。私がよくお開きする箇所ですが、「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を、神さまは始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデが強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われていたときには成しえなかった、たいせつな働きです。


(礼拝プログラムはこの後、または「続きを読む」の中に記されています)